第107話 構想の続き
カルド・ヴァルグリスは約束の日の朝に来た。従者はいなかった。高位司祭の衣も着ていない。灰色の外套一枚で、ごく普通の旅の男のように、リリアーナの家の前に立っていた。
「お邪魔します」
声は、思っていたよりも低かった。彼女は、この男を直接見るのは初めてだった。ヴェルクの広場では、名前だけが飛び交っていた。神託国家という言葉を最初に言った人物として。
思っていたより若くはなかった。だが、老いてもいない。歳の見当がつかない顔をしている。手は荒れていて、指の関節が太い。書き物ばかりしてきた手ではなかった。
そういえばこの男は元は地方の神殿にいたのだと、いつか誰かが言っていた。畑の水を配る算段を三十年やって、それから中央へ上がった、と。
(……順番が、逆だ)
普通は、中央から地方へ落ちる。この男は、地方から中央へ上がって、それでもまだ地方の話をしている。
「お一人ですか」
「連れて歩くほどの用ではありません」
カルドは勧められた椅子に座り、外套を膝の上で畳んだ。手の動きに、迷いがなかった。
「あなたの構想は、失敗しました」
リリアーナは、前置きを省いた。
「ヴェルクで、人が死にかけました。一斉通達は届く前に空振りに終わりました」
「ええ」
「否定なさらないのですね」
「事実ですので」
カルドは、少しも動じなかった。
「失敗したのは、手段です。目的ではありません」
「同じことでは」
「違います」
彼は、机の上に指を一本置いた。
「私が配ろうとしたのは、答えでした。この村は泉を封じろ、この都市は第三船団を先に通せ。答えを配れば、迷いは消えます。実際、消えました」
「畑が枯れました」
「はい」
彼は、目を伏せなかった。畑が枯れた、という言葉を、この男は自分の口で繰り返した。伝聞として片づけない話し方だった。
「答えは、外れます。外れたときに、誰も直せません。答えを配るとは、直す力を取り上げることでした。それが、私の誤りです」
リリアーナは、湯を出さなかった。この男に湯を出すべきかどうかを、まだ決めていない。判断が必要な場所は、いつも先に見えるはずだった。この朝は、見えているのに決まらない。
「では、何を配るおつもりですか」
「決め方を」
カルドは、そう言った。
「答えではなく、答えの出し方を配ります。誰がどこまで決めるのかを先に決める。確認する者と承認する者を分ける。迷いを一覧にして卓の上に並べる。外れたときに、直せる形で」
部屋の空気が、少し変わった。その言葉の並びを、彼女は知っていた。三年かけて、自分で組み立てたものだった。
誰がどこまで決めるのかを先に決める、というのは、都市連盟の分類表で最初に使った。確認する者と承認する者を分けるのは、リーヴェルトで失敗が出たあとに足した。迷いを一覧にして卓の上に並べるのは、王宮にいた頃からやっている。
三つは別々の場所で、別々の理由から生まれた。並べて言葉にしたことは、一度もない。誰かがそれを外から見て、順番に並べ直したということだ。
「……それは」
「あなたのものです」
カルドは、あっさり認めた。
「隠す必要を感じません。私は、あなたのやり方を写しました。写せるところは全部写しました」
「許可を求めた覚えはありません」
「求めれば、断られましたので」
その答えに、リリアーナは口を閉じた。彼女は、この男を怒鳴りつけたかった。だが、怒鳴る根拠がない。彼女は自分のやり方を秘匿したことがない。分類表は貼り出させたし、手順は誰にでも見せた。写されて困るものだと、一度も考えなかった。
考えなかったのは、写せるはずがないと思っていたからだ。三年かけて身につけたものが、外から見て写し取れるとは思っていなかった。その油断を、彼女は今、正面から見せられている。
「あなたは、私を排除しないのですね」
「効率が悪い」
カルドは、はっきりと言った。
「一年前、私は排除を選びました。異端に指定し、従う者を切り離しました。結果、連鎖は速まりました。切れば増える。あれで学びました」
「学ばれると、困りますね」
「困らせるつもりはありません」
彼は、少しだけ首を傾げた。
「私はあなたを、初めから敵だと思っていません」
リリアーナは、その言葉の意味を測った。
「合同評議の席は、あなたの発案ですか」
「はい」
「なぜ」
「決め方を配るなら、決め方を作った人がいる場所に置くのが、いちばん正しいからです」
正しい、と彼は言った。その一語に彼女は初めて、はっきりとした嫌な感触を覚えた。三年前、王宮の小広間で断罪されたときも、あの場の全員が、正しい判断だと言っていた。
「お断りしたら」
「席は空きます」
カルドは立ち上がった。
「ですが、決め方は配られます。あなたが座らなくても」
彼は外套を羽織り、扉のところで足を止めた。
「一つだけ、教えてください」
「なんでしょう」
「あなたは、あれを誰かに教えたことがありますか」
リリアーナは、答えられなかった。カルドは、それ以上何も聞かずに出ていった。




