第105話 異端のままの日々
異端と呼ばれることに、ルシア・エルフェルトは慣れていた。
言葉ほどの重さは、実のところ、なかった。門を閉ざされた神殿はいくつもあったが、閉ざさない神殿も同じくらいあった。村では誰も気にしなかった。指定の紙が読める者が、そもそも少ない。
彼女は歩き、星を読み、書き留めて、置いていく。
読んだ結果は紙に残す。今夜は南の風が続く、水位はあと十日下がる、雪解けは去年より遅い。それだけを書いて、あとは何も言わない。どうすべきかは、その土地の人間が決める。
最初の半年は、それが不親切に見えたらしい。
「教えてくださらないのですか」
何度も、そう言われた。
「読めました。ですが、どうすべきかは、私には分かりません」
「星が読めるのでしょう」
「読めます」
「なら、どうすればいいかも読めるはずだ」
「星は、明日の風向きを教えます。船を出すかどうかは、教えません」
「同じことでしょう」
「違います」
彼女は、何度でも同じように答えた。
「風向きを知っているのは私です。船を持っているのは、あなたです」
そう答えると、たいてい怒られた。神託官がそんなことでどうする、と。
彼女は謝らなかった。謝れば、間に合わせるために答えを出していた頃へ戻ってしまう。あの村の泉を封じた七日間を、彼女はまだ覚えている。畑が枯れ、村人が黙って桶を担ぎ、誰も文句を言わなかった七日間を。
文句を言われないことの、こわさを。だから、彼女は言わない。読んだものだけを置いて、次の土地へ行く。
半年を過ぎたあたりから、返ってくるものが変わった。
「水位が下がるなら、南の畑から先に播きます」
そう言われるようになった。彼女は頷くだけでいい。合っているとも間違っているとも言わない。それでも人は決めて、決めた顔で帰っていく。
あれは、いい変化だったのだろうか。ルシアには、まだ分からない。
冬の初め、東の漁村で、一度だけ失敗した。
風が変わる、とだけ書いて置いた。三日で変わるとも、十日で変わるとも書かなかった。書けなかったからだ。星は、そこまでは教えない。
村は、船を出した。二艘が戻らなかった。葬式のあと、年老いた漁師が彼女のところへ来た。
「あんたが三日と書いてくれれば、出さなかった」
「書けませんでした」
「読めなかったのか」
「三日か十日かは、星に出ません」
「なら、十日と書いてくれてもよかった」
ルシアは、その言葉を受け止めた。
「十日と書いて、三日で変わったら、次は誰も信じません」
「信じてほしいのか」
「いいえ」
彼女は、はっきりと答えた。
「信じてほしくありません。確かめてほしいのです」
漁師は、しばらく黙ってから、頷いた。
「そうか」
それだけだった。責められるより、ずっと重かった。
あの夜、彼女は初めて、自分のやり方が誰かを守らないことを、はっきりと理解した。それでも、やり方は変えなかった。変えれば、また間に合わせるために答えを出す。
中央神殿の使者が来たのは、二月ほど前だった。場所は、名もない街道の宿だった。黒い衣ではなかった。監察官でもなかった。ごく普通の身なりの司祭が一人、彼女の向かいに座った。
「ルシア・エルフェルト殿」
「はい」
「異端指定について、話に参りました」
彼女は、覚悟していた。連行か、返還の要求か、あるいは沈黙を条件にした取引か。そのどれであっても受けるつもりはなかった。
だが、司祭が置いた紙は、そのどれでもなかった。
「保留です」
「……保留」
「指定は取り消しません。ですが、執行を止めます。期限は設けません」
ルシアは、紙を見た。文言は短く、正確で、逃げ道がなかった。取り消しではない。だから、彼女が何かを認めたことにもならない。執行しないだけだ。
「なぜですか」
「もう一枚あります」
二枚目には、招請と書かれていた。中央神殿と大陸評議会が、合同で新しい評議を立ち上げる。神託を出す側と、制度を作る側が、同じ卓につく。そこに、あなたの席を用意する。
「私は、神託官ではありません」
「存じています」
「資格を返しました」
「その方に、来ていただきたいのです」
ルシアは、そのとき初めて、背筋が冷えるのを感じた。異端と呼ばれていたときは、何もこわくなかった。排除されるということは、外側にいるということだ。外側にいる限り、彼女は自分のやり方でいられる。
だが、迎え入れられたら。資格を返した彼女が、資格を返したまま席に座ったら、その席は何になるのか。
「……お断りします」
「即答なさらなくて結構です」
司祭は、丁寧に頭を下げた。
「席は、置いておきます」
その言い方が、いちばんこわかった。あれから二月、席はまだ置かれている。断っても、なくならない。
街道で、修道士とすれ違うことが増えた。以前なら目を伏せて通り過ぎた者たちが、近ごろは会釈をしていく。ある宿では、主人が宿代を受け取らなかった。近く復権なさるそうで、と言われた。
ルシアは、否定した。否定しても、話は形を変えて先に進んでいく。異端であることも、復権することも、いつのまにか彼女の手の外で決まっていく。それは、あの村で泉を封じたときと、どこか似ていた。
リリアーナの前で、ルシアは器を置いた。
「排除されるより、こわいものがあるとは、思っていませんでした」
窓の外で、春の風が鳴っていた。リリアーナは、何も言わなかった。ただ、扉のほうを一度だけ見た。
その二日後、彼女のところにも、使者が来た。




