第104話 私の問題ではありません
返事を書くのに、リリアーナは二日かけた。二日もかかる文面ではない。書くべきことは、初めから決まっていた。決まっているのに、紙の前で手が止まる。そんなことは、これまで一度もなかった。
三日目の朝、彼女はようやく短く書いた。
――分け方は、正しく引かれています。
――止まっているのは、引き方の問題ではありません。
――まだ、私の問題ではありません。
封をして、使いに渡した。
(拒否ではない)
そう自分に言い聞かせて、少し引っかかった。拒否ではないなら、何なのか。
彼女は、行かない理由をいくつも持っていた。オルシュには依頼権限を持つ者がいない。誰かが正式に頼んできたわけでもない。そこへ彼女が出向けば、それは「呼ばれた」ではなく「来た」になる。来た者は、必ず決めることを期待される。決めれば、権力になる。
どれも本当だ。どれも、去年からずっと言ってきたことだ。実を言えば、一度、別の文面を書いていた。
二日目の夜、彼女は白紙に向かって、行きます、と書いた。
そこまで書いて、手が止まった。その先に続く文章が、全部同じ形をしていたからだ。到着日を決め、宿を手配し、議場の使用日を押さえ、着手順を決める権限の所在を先に確認する。処理の段取りだった。
行くと決めた瞬間に、それは案件になる。彼女は、その紙を丸めなかった。丸めれば、後で自分が何を書きかけたか分からなくなる。二つ折りにして、引き出しに入れた。引き出しには、去年しまった白紙が一枚、まだそのままになっていた。
だが、そのどれも、アルノーの問いには答えていない。
――その後を、俺は教わっていません。
あの一行が、机の上の紙の下で、ずっと消えずにいた。昼を過ぎたころ、また扉が叩かれた。今度は、遠慮がちな音だった。三度。間を置いて、もう一度。
「どうぞ」
入ってきたのは、旅装の女だった。外套の裾に土がつき、髪は無造作に束ねてある。銀色の髪だと分かるまでに、少しかかった。
「……ルシア様」
「ルシアで結構です」
ルシア・エルフェルトは、そう言って小さく頭を下げた。神託官の衣は着ていない。星盤も持っていない。
「近くを通りましたので」
「近くを通る道は、この街にはありません」
リリアーナが言うと、ルシアはわずかに目を細めた。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「ええ。嘘です」
「では、なぜ」
「話す相手が、他にいませんでした」
その答え方に、リリアーナは少し驚いた。
「私は、そういう相手ですか」
「他に思いつきませんでした」
「……それは、光栄と受け取るべきでしょうか」
「どちらでも」
ルシアは、椅子を勧められて、素直に座った。
この一年、ルシアは各地を歩いている。星は読む。だが、神託は出さない。読んだものは書き留めて置いていくだけで、どうすべきかは言わない。それが、神託官の資格を返したあとの、彼女のやり方だった。
「オルシュに寄りました」
「……そうですか」
「止まっていました。誰も間違えていないのに」
リリアーナは、湯を沸かした。今度は段取りを考えなかった。手が勝手に動いた。
「あなたは、どう見ましたか」
「星は、何も言いません」
ルシアは、湯気の立つ器を両手で包んだ。
「ただ、あそこには、引き受ける人がいませんでした。分けることを覚えて、引き受けることを覚えていない」
「分けることは、教えられます」
「引き受けることは?」
リリアーナは、答えなかった。答えを持っていないからではない。持っていないことに、この日はじめて気がついたからだ。
彼女がこれまで渡してきたのは、結果だった。整理された表。可視化された論点。誰がどこで止まっているかを示した紙。渡したあと、人はそれを見て動いた。動けたのだから、それでいいと思っていた。
だが、方法は渡していない。
「あなたは、どうやって覚えたのですか」
ルシアが尋ねた。
「覚えた、というより」
リリアーナは、湯気の向こうを見た。
「必要だったので、やりました」
「誰かに教わったわけではなく」
「王宮に、教える人はいませんでした」
言ってから、彼女は自分の答えの薄さに気づいた。必要だったのでやった。それは、教えられない者の言い分だ。誰も彼女に教えなかったから、彼女も誰にも教えられない。
そういうことを、三年やってきた。
「私は」
ルシアが、器を置いた。
「星の読み方を、七年かけて教わりました」
「……七年」
「読み方は教わりました。読んだあとにどうするかは、教わりませんでした」
彼女は、少しだけ笑った。
「だから、あの村で間違えたのだと思います」
沈黙が長くなった。ルシアはそれを気にする様子もなく、器の中を見ていた。
やがて、彼女は顔を上げた。
「実は、もう一つあります」
「なんでしょう」
「中央神殿から、接触がありました」
リリアーナの指が、器の縁で止まった。
「私にです」
ルシアは、静かに続けた。
「異端に指定されたまま、一年になります。今さら何を、と思いました」
「……何と」
「それが」
彼女は、少しだけ言いよどんだ。この人が言いよどむところを、リリアーナは初めて見た。
「排除ではありませんでした」




