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婚約破棄された悪役令嬢ですが、仕事を奪った王宮が先に崩れました  作者: 水城ルナ


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103/114

第103話 止まったままの形

 オルシュの議場は、天井が低かった。石造りの古い集会所を、そのまま使っている。窓は高い位置に細く並んでいて、昼でも光は足りない。アルノー・リーヴェルトは、いつものように隅の席で記録を取っていた。


 議題は、二十日前から変わっていない。


「北の水路の補修を先に行う。これは決まっています」


 書記が読み上げる。


「南の橋の架け替えも、行う。これも決まっています」


 そこまでは、誰も反対しない。分類表は正しく作られていた。急ぐものと急がないもの、金を要するものと人を要するもの、今季に片づくものと来季に持ち越すもの。三本の線で綺麗に区切られている。


 問題は、その先だった。


「では、どちらから」


 誰も答えない。北の代表は、南を見る。南の代表は、北を見る。どちらも怒っていない。声を荒げる者もいない。ただ、二十日、同じところで止まっている。


「北が先です。分類表の第一列にあります」


「第一列は、緊急度の列です。着手順の列ではありません」


「では、着手順を決めましょう」


「それを決める者が、決まっていません」


「前回もそう伺いました」


「前回も、決まりませんでした」


「では、今日こそ決めましょう」


「どなたが」


「……それを、今、話しているのでは」


 アルノーの筆が止まった。どの発言も、間違っていない。分けたのだから、分けたとおりに扱うべきだ。分け方は正しく、手順は守られていて、誰も規則を破っていない。


 彼は、この街に来た日のことを思い出した。冬の終わり、オルシュの使いがリーヴェルトまで来た。噂を聞きました、と彼らは言った。分けるやり方があると。分ければ止まらなくなると。教えてほしい、と。


 アルノーは、教えた。三本の線の引き方を、確認する者と承認する者を別々に立てる理由を、迷いを一覧にして机に置く手順を。オルシュの人々は熱心に書き取った。飲み込みも早かった。二日で分類表ができ、三日目には貼り出された。


 あのとき、彼は確かに嬉しかった。自分が受け取ったものを、次へ渡せた気がした。


 (……なのに、動かない)


 彼は、去年のヴェルクを思い出した。あのときは、逆だった。何もかも混ざっていて、誰も分けられなかった。人が押し合い、石が飛び、火が出た。


 今は、そうではない。整っている。整ったまま、止まっている。


「アルノー殿」


 議長席から声がかかった。オルシュには専任の議長がいない。持ち回りで、今季は年配の商人が座っている。


「あなたは、あの整理役のやり方を学んだと聞いています」


「……学んだ、というほどでは」


「冬に、教えてくださったでしょう」


「教えたのは、分け方です」


「分けました」


 商人は、貼り出された分類表のほうへ手を向けた。


「分けたとおりに、やろうとしています。北の代表も、南の代表も、規則を守っている。守っているのに、荷車が一台も動かない」


「……はい」


「なら、あとは何が足りないのですか」


 アルノーは、答えられなかった。足りないものの名前を、彼は持っていない。冬に自分が渡したものは、たしかに正しかった。正しいものを渡して、こうなっている。


「では、線を引いてください」


 アルノーは、立ち上がった。線を引くこと自体は、できる。彼は分類表を作り直し、着手順の列を新しく足すこともできた。北が先だと書くことも、南が先だと書くこともできた。


 だが、彼は筆を持ったまま、動けなかった。


 (俺が書いたら、それは俺が決めたことになる)


 あの人は、決めなかった。決めないまま、決まる形を作った。どうやって、と考えて、そこで思考が止まる。


 彼女がやっていたのは、迷う場所を、迷える形にすることだった。誰がどこまで決めるのかを、先に決めることだった。


 なら、ここで誰が決めるべきなのか。それを決める権限を、誰が持っているのか。


「……確認します」


 アルノーは、そう言うのが精一杯だった。


「この議場で、着手順を決める権限は、どなたにありますか」


 沈黙が落ちた。北の代表が口を開きかけて、閉じた。南の代表も同じだった。議長席の商人が、困ったように白い眉を寄せた。


「……それは、全員で決めるものでしょう」


「全員で決められないから、二十日止まっています」


「では、多数で」


「多数で決めれば、少ないほうが負担を負います」


 南の代表が、初めて声を上げた。


「負担の話をしているのではありません。順番の話です」


「順番が負担です」


 北の代表が、静かに返した。


「後になったほうが、冬を越します」


 誰も、それを否定しなかった。言い争いにすらならない。二人とも、相手の言っていることが正しいと知っている。正しいもの同士は、ぶつからずに止まる。


 言ってしまってから、アルノーは自分の口調に驚いた。責めるつもりはなかった。ただ、事実を並べただけだ。


 議場が、静かになった。その静かさは、答えが出た静かさではなかった。答えの出し方が分からない静かさだった。


 会議は、その日も何も決めずに終わった。人が引けていく議場で、アルノーは記録簿を閉じた。書き足すことが、ほとんどなかった。


 外へ出ると、風が冷たかった。西の内陸は、春が来るのが遅い。


 北の水路は、去年の秋から傷んだままだ。南の橋は、荷車が通るたびに軋む音を立てる。どちらも、放っておいて済む期間はもう終わっている。二十日前なら、まだ余裕があった。今は、ない。


 誰も間違えていないのに、都市は少しずつ傷んでいく。


 アルノーは、宿へ戻る道すがら、書き出しを何度も頭の中で組み直した。助けてください、とは書けない。それを書けば、あの人は来られなくなる。来た者は決めることを期待される、と彼女は言っていた。


 だから、彼は状況だけを書くことにした。そして最後の一行を書いたとき、自分でも思っていなかった言葉が出た。


 ――その後を、俺は教わっていません。


 背後で、誰かが低く言うのが聞こえた。


「……あの人を、呼べないのか」


「どの人です」


「整理役だよ。都市連盟を動かしたっていう」


「呼べるものなら、冬に呼んでいます」


 アルノーが振り返ると、二人はばつが悪そうに口をつぐんだ。


「すみません。今のは、聞かなかったことに」


「いえ」


 彼は、首を振った。


「俺も、同じことを考えました」

誰も怒鳴らず、誰も間違えていないのに、都市が少しずつ傷んでいく。第二部でいちばん書きたかったのは、この止まり方です。

悪人がいないほうが、止まったものは動きません。


次回、リリアーナの返事です。行かない理由なら、いくつも持っています。


「分けたあと」で止まった覚えのある方は、ブックマークをどうぞ。

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