第103話 止まったままの形
オルシュの議場は、天井が低かった。石造りの古い集会所を、そのまま使っている。窓は高い位置に細く並んでいて、昼でも光は足りない。アルノー・リーヴェルトは、いつものように隅の席で記録を取っていた。
議題は、二十日前から変わっていない。
「北の水路の補修を先に行う。これは決まっています」
書記が読み上げる。
「南の橋の架け替えも、行う。これも決まっています」
そこまでは、誰も反対しない。分類表は正しく作られていた。急ぐものと急がないもの、金を要するものと人を要するもの、今季に片づくものと来季に持ち越すもの。三本の線で綺麗に区切られている。
問題は、その先だった。
「では、どちらから」
誰も答えない。北の代表は、南を見る。南の代表は、北を見る。どちらも怒っていない。声を荒げる者もいない。ただ、二十日、同じところで止まっている。
「北が先です。分類表の第一列にあります」
「第一列は、緊急度の列です。着手順の列ではありません」
「では、着手順を決めましょう」
「それを決める者が、決まっていません」
「前回もそう伺いました」
「前回も、決まりませんでした」
「では、今日こそ決めましょう」
「どなたが」
「……それを、今、話しているのでは」
アルノーの筆が止まった。どの発言も、間違っていない。分けたのだから、分けたとおりに扱うべきだ。分け方は正しく、手順は守られていて、誰も規則を破っていない。
彼は、この街に来た日のことを思い出した。冬の終わり、オルシュの使いがリーヴェルトまで来た。噂を聞きました、と彼らは言った。分けるやり方があると。分ければ止まらなくなると。教えてほしい、と。
アルノーは、教えた。三本の線の引き方を、確認する者と承認する者を別々に立てる理由を、迷いを一覧にして机に置く手順を。オルシュの人々は熱心に書き取った。飲み込みも早かった。二日で分類表ができ、三日目には貼り出された。
あのとき、彼は確かに嬉しかった。自分が受け取ったものを、次へ渡せた気がした。
(……なのに、動かない)
彼は、去年のヴェルクを思い出した。あのときは、逆だった。何もかも混ざっていて、誰も分けられなかった。人が押し合い、石が飛び、火が出た。
今は、そうではない。整っている。整ったまま、止まっている。
「アルノー殿」
議長席から声がかかった。オルシュには専任の議長がいない。持ち回りで、今季は年配の商人が座っている。
「あなたは、あの整理役のやり方を学んだと聞いています」
「……学んだ、というほどでは」
「冬に、教えてくださったでしょう」
「教えたのは、分け方です」
「分けました」
商人は、貼り出された分類表のほうへ手を向けた。
「分けたとおりに、やろうとしています。北の代表も、南の代表も、規則を守っている。守っているのに、荷車が一台も動かない」
「……はい」
「なら、あとは何が足りないのですか」
アルノーは、答えられなかった。足りないものの名前を、彼は持っていない。冬に自分が渡したものは、たしかに正しかった。正しいものを渡して、こうなっている。
「では、線を引いてください」
アルノーは、立ち上がった。線を引くこと自体は、できる。彼は分類表を作り直し、着手順の列を新しく足すこともできた。北が先だと書くことも、南が先だと書くこともできた。
だが、彼は筆を持ったまま、動けなかった。
(俺が書いたら、それは俺が決めたことになる)
あの人は、決めなかった。決めないまま、決まる形を作った。どうやって、と考えて、そこで思考が止まる。
彼女がやっていたのは、迷う場所を、迷える形にすることだった。誰がどこまで決めるのかを、先に決めることだった。
なら、ここで誰が決めるべきなのか。それを決める権限を、誰が持っているのか。
「……確認します」
アルノーは、そう言うのが精一杯だった。
「この議場で、着手順を決める権限は、どなたにありますか」
沈黙が落ちた。北の代表が口を開きかけて、閉じた。南の代表も同じだった。議長席の商人が、困ったように白い眉を寄せた。
「……それは、全員で決めるものでしょう」
「全員で決められないから、二十日止まっています」
「では、多数で」
「多数で決めれば、少ないほうが負担を負います」
南の代表が、初めて声を上げた。
「負担の話をしているのではありません。順番の話です」
「順番が負担です」
北の代表が、静かに返した。
「後になったほうが、冬を越します」
誰も、それを否定しなかった。言い争いにすらならない。二人とも、相手の言っていることが正しいと知っている。正しいもの同士は、ぶつからずに止まる。
言ってしまってから、アルノーは自分の口調に驚いた。責めるつもりはなかった。ただ、事実を並べただけだ。
議場が、静かになった。その静かさは、答えが出た静かさではなかった。答えの出し方が分からない静かさだった。
会議は、その日も何も決めずに終わった。人が引けていく議場で、アルノーは記録簿を閉じた。書き足すことが、ほとんどなかった。
外へ出ると、風が冷たかった。西の内陸は、春が来るのが遅い。
北の水路は、去年の秋から傷んだままだ。南の橋は、荷車が通るたびに軋む音を立てる。どちらも、放っておいて済む期間はもう終わっている。二十日前なら、まだ余裕があった。今は、ない。
誰も間違えていないのに、都市は少しずつ傷んでいく。
アルノーは、宿へ戻る道すがら、書き出しを何度も頭の中で組み直した。助けてください、とは書けない。それを書けば、あの人は来られなくなる。来た者は決めることを期待される、と彼女は言っていた。
だから、彼は状況だけを書くことにした。そして最後の一行を書いたとき、自分でも思っていなかった言葉が出た。
――その後を、俺は教わっていません。
背後で、誰かが低く言うのが聞こえた。
「……あの人を、呼べないのか」
「どの人です」
「整理役だよ。都市連盟を動かしたっていう」
「呼べるものなら、冬に呼んでいます」
アルノーが振り返ると、二人はばつが悪そうに口をつぐんだ。
「すみません。今のは、聞かなかったことに」
「いえ」
彼は、首を振った。
「俺も、同じことを考えました」
誰も怒鳴らず、誰も間違えていないのに、都市が少しずつ傷んでいく。第二部でいちばん書きたかったのは、この止まり方です。
悪人がいないほうが、止まったものは動きません。
次回、リリアーナの返事です。行かない理由なら、いくつも持っています。
「分けたあと」で止まった覚えのある方は、ブックマークをどうぞ。




