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婚約破棄された悪役令嬢ですが、仕事を奪った王宮が先に崩れました  作者: 水城ルナ


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102/110

第102話 案件のない訪問

第二部がはじまります。

本編の完結から、季節がひとつ巡ったあとの話です。


・大きな戦いは起きません

・恋愛は控えめのままです

 扉が叩かれたのは、四日後の昼過ぎだった。規則正しい、迷いのない叩き方。リリアーナ・エヴァレットは、書簡の束を仕分ける手を止めた。前と同じ音だ。前と同じ人だ。


 (……早い)


 彼女は、机の上を片付けようとして、途中で手を止めた。片付ける必要のあるものが、そもそも出ていない。この数日、届く書簡は減り続けていた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、やはりカイエル・ルーヴェンだった。供も連れず、飾りもない。前と同じ立ち方で、部屋の中ほどに立つ。


「来た」


「……ええ」


 それきり、言葉が続かなかった。


 リリアーナは、椅子を勧めた。彼は今度は座った。そこから先の手順を、彼女は持っていなかった。案件があれば、机に紙を出す。相手が状況を並べ、彼女がそれを仕分ける。二人の間にあった形は、それだけだった。


 (お茶を、出すべきだろうか)


 考えて、自分で少し呆れた。湯を沸かす順序を、彼女は段取りとして組み立てはじめていた。誰が確認し、誰が承認するか。そういう頭の使い方しか、していない。


「何か、出しましょうか」


「いらない」


 カイエルは、窓の外を見ていた。春の光が、床に長く伸びている。


「用がないと、こんなに間が持たないものか」


「……ええ」


 正直に答えると、彼はわずかに笑った。笑われても、腹は立たなかった。事実だったからだ。


「この街は、どうだ」


「静かです」


「それだけか」


「……朝は、市が立ちます。魚は隣の川のもので、鮮度は良くありません。パンは二軒あって、東の店のほうが安いのですが、水曜は焼きません」


「よく見ているな」


「見ているのではありません」


 彼女は、自分の答えを少し訂正した。


「把握しているだけです」


「同じだろう」


「違います」


 リリアーナは、そこで初めて、うまく言えないと思った。


「把握は、必要があるからします。見るのは……必要がなくても、するものでしょう」


 カイエルは、それについて何も言わなかった。ただ、少しだけこちらを見た。二人はしばらく、黙って座っていた。外で荷車が通る音がした。近所の子どもが走っていく声がした。どれも、彼女が処理すべきことではなかった。


「慣れないな」


「慣れるものでしょうか、これは」


「知らん」


 その答え方が、妙に信用できた。彼はいつも、知らないことを知らないと言う。


 思えば、この人と同じ部屋にいた時間は、決して短くない。王宮を出てからの三年、案件は途切れなかった。都市連盟の分類表を作った冬も、大陸評議会が彼女の名を封じた春も、彼は必ず紙を持ってきた。紙があれば、話すことは無限にあった。


 紙がないと、こうなる。


「一つ、聞いていいですか」


「言え」


「先日おっしゃった、また来る、というのは」


 リリアーナは、言葉を選んだ。選んでいる自分が、少し不慣れだった。


「どのくらいの間隔を、想定されていますか」


 カイエルは、こちらを見た。


「想定していない」


「……予定を立てないのですか」


「立てたら、案件になる」


 彼女は、口を開いて、閉じた。


 反論の形が見つからなかった。予定を立て、間隔を決め、次を約束すれば、それはもう一つの取り決めだ。取り決めがあれば、彼女はそれを守る。守るとは、処理するということだ。


 (……そういうことか)


 この人は、処理できないものを、わざわざ持ってきている。沈黙が、三度目に落ちたところで、扉の外に足音がした。今度は使いの少年だ。書簡を一通置いて、駆けて行った。


 差出人の名を見て、リリアーナは眉をわずかに動かした。


「アルノー・リーヴェルトです」


「あの書記官補佐か」


「ええ」


 封を切る。中身は短かった。西の内陸に、オルシュという都市がある。冬の終わりに、そこで例の「分ける」やり方が試された。北と南で扱いを分け、順番を決め、確認する者を先に立てた。手順はほとんど正しかった。


 だが、そこから先が動いていない。


 分けたあと、どちらの側も引き受ける者が出ない。両方が「向こうが先だ」と言い、誰も間違えていないまま、二十日が過ぎている。


 アルノーは、最後にこう書いていた。


 ――分け方は、覚えました。その後を、俺は教わっていません。


 リリアーナは、紙を膝の上に置いた。


 カイエルが、こちらを見ている。


「案件か」


「いいえ」


 彼女は、少し考えてから続けた。


「私に、決裁を求めていません。指示も求めていません。……ただ、書いてきただけです」


「なら」


 カイエルは、椅子の背に体を預けた。


「それは案件じゃない。お前宛だ」


 その言い方に、彼女は返す言葉を探した。案件であれば、答えは決まっている。関与するか、しないか。利害と責任の所在を並べれば、線はすぐに引ける。


 だが、これは案件ではない。


「行くのか」


「……依頼権限を持つ者が、あの都市にいません」


「そういう話はしていない」


 カイエルは、机の上の紙を見た。


「行きたいのか、と聞いている」


 リリアーナは、答えなかった。


 答えの形が、手元になかった。行くべきか、行くべきでないか。その二つなら、彼女はいくらでも並べられる。行けば呼ばれた者ではなく来た者になる。来た者は決めることを期待される。決めれば権力になる。三年前に、そう決めた。


 行きたいかどうかは、その計算に一度も入っていない。


「……お答えが、遅くて申し訳ありません」


「謝ることか」


「即答できないのは、私の落ち度です」


 カイエルは、少し笑ったようだった。


「相変わらずだな」


 彼は立ち上がり、扉のところで一度だけ振り返った。


「考えておけと、前にも言った」


 扉が閉まる。


 部屋には、アルノーの短い書簡だけが残った。決裁欄も、期日も、宛名の敬称すらない紙が、机の上で春の光を受けている。


 彼女は、いつもなら一拍で返す。何をすべきかを。誰が決めるべきかを。


 春の光が、床の上を少しだけ動いた。


 その日、彼女は、一度も即答しなかった。

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