第102話 案件のない訪問
第二部がはじまります。
本編の完結から、季節がひとつ巡ったあとの話です。
・大きな戦いは起きません
・恋愛は控えめのままです
扉が叩かれたのは、四日後の昼過ぎだった。規則正しい、迷いのない叩き方。リリアーナ・エヴァレットは、書簡の束を仕分ける手を止めた。前と同じ音だ。前と同じ人だ。
(……早い)
彼女は、机の上を片付けようとして、途中で手を止めた。片付ける必要のあるものが、そもそも出ていない。この数日、届く書簡は減り続けていた。
「どうぞ」
入ってきたのは、やはりカイエル・ルーヴェンだった。供も連れず、飾りもない。前と同じ立ち方で、部屋の中ほどに立つ。
「来た」
「……ええ」
それきり、言葉が続かなかった。
リリアーナは、椅子を勧めた。彼は今度は座った。そこから先の手順を、彼女は持っていなかった。案件があれば、机に紙を出す。相手が状況を並べ、彼女がそれを仕分ける。二人の間にあった形は、それだけだった。
(お茶を、出すべきだろうか)
考えて、自分で少し呆れた。湯を沸かす順序を、彼女は段取りとして組み立てはじめていた。誰が確認し、誰が承認するか。そういう頭の使い方しか、していない。
「何か、出しましょうか」
「いらない」
カイエルは、窓の外を見ていた。春の光が、床に長く伸びている。
「用がないと、こんなに間が持たないものか」
「……ええ」
正直に答えると、彼はわずかに笑った。笑われても、腹は立たなかった。事実だったからだ。
「この街は、どうだ」
「静かです」
「それだけか」
「……朝は、市が立ちます。魚は隣の川のもので、鮮度は良くありません。パンは二軒あって、東の店のほうが安いのですが、水曜は焼きません」
「よく見ているな」
「見ているのではありません」
彼女は、自分の答えを少し訂正した。
「把握しているだけです」
「同じだろう」
「違います」
リリアーナは、そこで初めて、うまく言えないと思った。
「把握は、必要があるからします。見るのは……必要がなくても、するものでしょう」
カイエルは、それについて何も言わなかった。ただ、少しだけこちらを見た。二人はしばらく、黙って座っていた。外で荷車が通る音がした。近所の子どもが走っていく声がした。どれも、彼女が処理すべきことではなかった。
「慣れないな」
「慣れるものでしょうか、これは」
「知らん」
その答え方が、妙に信用できた。彼はいつも、知らないことを知らないと言う。
思えば、この人と同じ部屋にいた時間は、決して短くない。王宮を出てからの三年、案件は途切れなかった。都市連盟の分類表を作った冬も、大陸評議会が彼女の名を封じた春も、彼は必ず紙を持ってきた。紙があれば、話すことは無限にあった。
紙がないと、こうなる。
「一つ、聞いていいですか」
「言え」
「先日おっしゃった、また来る、というのは」
リリアーナは、言葉を選んだ。選んでいる自分が、少し不慣れだった。
「どのくらいの間隔を、想定されていますか」
カイエルは、こちらを見た。
「想定していない」
「……予定を立てないのですか」
「立てたら、案件になる」
彼女は、口を開いて、閉じた。
反論の形が見つからなかった。予定を立て、間隔を決め、次を約束すれば、それはもう一つの取り決めだ。取り決めがあれば、彼女はそれを守る。守るとは、処理するということだ。
(……そういうことか)
この人は、処理できないものを、わざわざ持ってきている。沈黙が、三度目に落ちたところで、扉の外に足音がした。今度は使いの少年だ。書簡を一通置いて、駆けて行った。
差出人の名を見て、リリアーナは眉をわずかに動かした。
「アルノー・リーヴェルトです」
「あの書記官補佐か」
「ええ」
封を切る。中身は短かった。西の内陸に、オルシュという都市がある。冬の終わりに、そこで例の「分ける」やり方が試された。北と南で扱いを分け、順番を決め、確認する者を先に立てた。手順はほとんど正しかった。
だが、そこから先が動いていない。
分けたあと、どちらの側も引き受ける者が出ない。両方が「向こうが先だ」と言い、誰も間違えていないまま、二十日が過ぎている。
アルノーは、最後にこう書いていた。
――分け方は、覚えました。その後を、俺は教わっていません。
リリアーナは、紙を膝の上に置いた。
カイエルが、こちらを見ている。
「案件か」
「いいえ」
彼女は、少し考えてから続けた。
「私に、決裁を求めていません。指示も求めていません。……ただ、書いてきただけです」
「なら」
カイエルは、椅子の背に体を預けた。
「それは案件じゃない。お前宛だ」
その言い方に、彼女は返す言葉を探した。案件であれば、答えは決まっている。関与するか、しないか。利害と責任の所在を並べれば、線はすぐに引ける。
だが、これは案件ではない。
「行くのか」
「……依頼権限を持つ者が、あの都市にいません」
「そういう話はしていない」
カイエルは、机の上の紙を見た。
「行きたいのか、と聞いている」
リリアーナは、答えなかった。
答えの形が、手元になかった。行くべきか、行くべきでないか。その二つなら、彼女はいくらでも並べられる。行けば呼ばれた者ではなく来た者になる。来た者は決めることを期待される。決めれば権力になる。三年前に、そう決めた。
行きたいかどうかは、その計算に一度も入っていない。
「……お答えが、遅くて申し訳ありません」
「謝ることか」
「即答できないのは、私の落ち度です」
カイエルは、少し笑ったようだった。
「相変わらずだな」
彼は立ち上がり、扉のところで一度だけ振り返った。
「考えておけと、前にも言った」
扉が閉まる。
部屋には、アルノーの短い書簡だけが残った。決裁欄も、期日も、宛名の敬称すらない紙が、机の上で春の光を受けている。
彼女は、いつもなら一拍で返す。何をすべきかを。誰が決めるべきかを。
春の光が、床の上を少しだけ動いた。
その日、彼女は、一度も即答しなかった。




