第101話 番外編 契約にない話
完結後の、小さな後日談です。
大きな事件は起きません。季節がひとつ巡っただけの、静かな話です。
・本編の結末のあと
・恋愛は最後まで控えめのままです
王都を離れた街に、春が来ていた。
リリアーナ・エヴァレットは、借りている小さな家の窓辺で、届いたばかりの書簡を整理していた。
各地から回ってくる報告は、以前より穏やかだ。神託を巡る混乱が消えたわけではない。ただ、どこかで誰かが線を引き、別の誰かがそれを引き継ぐ――その繰り返しが、少しずつ形になりつつある。
(……回っている)
彼女が表に立たなくても、だ。
それでいい。最初から、そう望んでいた。
書簡の束を仕分け終えたとき、扉が叩かれた。
規則正しい、迷いのない叩き方。
リリアーナは、手を止めた。
この叩き方を、彼女は一人しか知らない。
「――どうぞ」
入ってきたのは、第二王子カイエル・ルーヴェンだった。
供も連れず、飾りもない。ただ、まっすぐに立っている。
「久しぶりだな」
「ええ」
リリアーナは、すでに次の動作に入っていた。
机の上を片付け、白紙を一枚、手前に引き寄せる。
カイエルが直接ここへ来る理由は、一つしかない。
案件だ。誰かが決めきれない何かを、彼女の前に置きに来る。それが、二人の間にある形だった。
(また、線を引く仕事)
「座ってください。……それで、何が起きています?」
カイエルは、椅子には座らなかった。
「何も」
短い答え。
「……何も?」
「今日は、案件を持ってきていない」
リリアーナは、引き寄せたばかりの白紙を見た。
使う場所のない紙が、そこにあった。
彼女が、白紙を前に手を止めるのは、初めてのことだった。
「先月、中央神殿の一斉通達は空振りに終わった」
カイエルは、窓の外に目をやった。
「命令が届く前に、各地がそれぞれ判断していた。止めようとしても、もう止まらない」
「……連鎖ですね」
「ああ。お前が“別の形”と言ったやつだ」
彼は、こちらを見た。
「うまくいった、と言いに来た」
それだけのことを、彼はわざわざ、自分の足で運んできた。
リリアーナは、少し考えた。
(報告書で済む話だ)
書面で送れば、一行で終わる。彼は、それをしなかった。
「……なぜ、直接?」
「聞きたいことがあった」
カイエルは、言葉を選ぶふうでもなく、率直に言った。
「これが片付いたら、お前はどうする」
リリアーナは、答えようとして――止まった。
いつもなら、即答できる。
どんな問いにも、彼女は用意している。責任の所在。優先順位。次に起きること。すべて、先に想定してある。
だが、その問いには、用意がなかった。
(……私は)
役目が終わったあとの自分を、彼女は一度も想定していなかった。切られる前提で動くことには、とうに慣れていた。だが、切られたあとに“何をしたいか”を、誰かに問われたことは、一度もない。
自分でさえ、問わなかった。
「……分かりません」
初めて、彼女はそう言った。
カイエルは、その答えに、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「珍しいな。お前が“分からない”と言うのは」
「……ええ」
「なら、考えておけ」
彼は、扉の方へ向かった。
「また来る」
「案件ですか」
「いや」
カイエルは、振り返らずに言った。
「案件がなくても、来る」
扉が、静かに閉まる。
リリアーナは、しばらく白紙を見ていた。
結局、一度も使わなかった紙。
(……契約にない)
彼女が結んだ契約に、この時間の項目はない。表向きの役職も、判断整理権も、拒否権も――どこを探しても、これは書かれていない。
線の、引きようがなかった。
彼女は、白紙を、そっと引き出しにしまった。
捨てはしなかった。
窓の外で、春の光が、床に長い影を落としている。
かつて王宮の廊下で、同じ影を見ながら、彼女は「切られる前提で動こう」と決めた。あのとき、影は去っていく背中を照らしていた。
今、同じ影が、留まる部屋の床に伸びている。
――今度は、何と答えよう。
その問いにだけ、彼女はまだ、線を引けずにいた。
その音が、次に扉を叩くのは――思っていたより、ずっと早かった。
彼女がずっと得意だった「他人のための線引き」を、初めて自分に向けた話でした。
答えが出るまでには、もう少しかかります。
第二部から、その続きを書いていきます。




