第二十章
ドキドキしすぎたせいで、約束が待ち切れなかったせいで、ジネットと別れてしばらく、あたしは寝付くことができなかった。一人で藁のベッドの上でゴロゴロして、月明かりを観察したり、フクロウの声を聞いていたりした。なんだか本当に幸せな気分だった。そして逆に、やっと寝れた時は、あまりにも疲れすぎていて、ずっと眠りこけてしまったみたいだった――朝、眩しい太陽に照らされて起きると、もう日が相当上のところにまで昇っていた。
そして――堪らなくわくわくした笑顔であたしの顔を覗き込んでいる、少年の顔――。
「――シャルル――!!」
「クリスティアーナ!!」
あたしはベッドから飛びあがり、二人でその場で抱き合った。堪らなく愛しくて、互いにぎゅっと抱きしめる。本物だ――今度こそ、本物のシャルルだ――!!
「おはよう!!」
「おはよう――!!」
「よかった、生きて帰って来たんだね!? あぁ、本当によかった!! あははっ!!」
「うん、あたし大丈夫だったよ、全部やり遂げてきたよ!! 本当に幸せ!!」
あたしたちはシャルルの胸に顔をうずめた。
「すっごくギリギリだったけど、なんとかあたし、皆を守ったよ!!」
「すごいね……やっぱり、本当にすごいや。実は昨日の夜、不安になったことがあってさ。眠れなくて外を見てたら、空が変なことになったんだ。なんか全部真っ赤に染まってて。あの時は本当にどうしちゃったのかと思ったよ――それで、その後、なんだか気を失っちゃってさ。空に変な、よくわからない文字が出てきて……」
きっと、サムザリエルのあの悪魔言語のことだ。確かに、一般人なら、見ただけで気絶してしまってもおかしくはない。
「実はあたしも、あの時まずい状態だったの。でも、沢山の人のおかげで、助かった。シャルルも!! ほら――」
あたしは、銀のナイフを差し出した。
「これ。何回も、お世話になったの。これが無かったらあたし死んでた、本当にありがとう!!」
「へへ……お、お世話って……」
「いやぁ、そ、その……」
少し気まずく目を逸らす。
「あんまり……用途的に、想像したい物でもないよね」
「いいや、まぁ」
シャルルが苦笑いをする。
「そのためにあげたんだから。気にしないで」
「あげるって、でも……ずっと持っておくわけにはいかないもの。返すよ」
「まぁ、そうかな……」
シャルルが髪の毛を掻く。
「もし、使いたいときには、僕に言って。自由に使っていいから」
「うん、ありがとう。……あっ」
見ると、銀のナイフは、少し刃毀れしていた。ジネットから、刃物なんて基本的に想像以上に刃毀れしやすい物だとは聞いていたが、ちょっとこれは流石にまず……
……いや、問題ない。
「ちょっと待ってね」
あたしは囁いた。ナイフをシャルルに渡す。そして、目を閉じ、自らの胸の前で、両手をぱんと打ち鳴らした。
あたしの周りに、真っ白な炎が燃え広がった。暖かい光の海。まるで裸の上を、全身、羽毛にくすぐられるような心地よい感覚が、あたしの身体を優しく包み込む。あたしと同じ形をした、揺らめくような影が現れ、あたしに、私が、そっと愛しく抱きつき、唇をぴとりと合わせ、内側に入り込んだ。
「――色――変わってる」
シャルルが目を丸くする。
「前は、黒かったのに……どうしたの?」
「色々、ね」
私はそっと微笑み、シャルルの持っている銀のナイフの上に手をかざした。軽く念じる。
「後で教えてあげる」
刃毀れが、見る見るうちに治っていく。新品のように、完璧に。シャルルが目を大きく見開いた。
「うわぁっ……すごいなぁ。これうまく使えば、少しは掃除とか仕事とか、サボれるかもね」
「そうねぇ……まぁ、それぐらいのご褒美、あってもいいかな」
私は笑った。そして、ふと気付く。
「そうだ、シャルル。約束!!」
「そうだ!! じゃ、じゃあ……」
シャルルがおどおどと、ナイフを置き、私の身体の後ろに両手を回した。私も、彼の後ろをそっと抱きしめる。
「ありがとう、クリスティアーナ。愛してる」
「私もよ、シャルル」
ギュッと抱き寄せあって――二人で、思いっきりキスをした。もう一度幸せに。こんなにも幸せに。こんなに満たされた気持ち初めて。こんなに安らげることなんて初めて。私は愛の中にいた。本当に、本当に、限りなく幸せだった。
シャルルはあたしに、色々質問してきた――そしてあたしもそれに対して、全部、正直に答えてあげた。これまでの戦いのこと、ジネットのこと、サンドリーヌ・ファミリーのこと、そして《色の無い悪魔》、サムザリエルのこと。シャルルはすべて、熱心に聞いてくれた。シャルルは聞き上手だ――あたしが強調したいところでは驚いてくれるし、落ち込んでるところでは一緒に落ち込んでくれるし、嬉しい時には、一緒に、飛びきりの笑顔になってくれる。あたしが話下手な分、逆になんだか恥ずかしいぐらいだった。
「……そうだったんだね」
全てを聞き終わったシャルルが、悲しげに笑った。
「知らなかったよ……夢にも思わなかった。まさか、僕が普通の日常を暮らしてるつもりって時に、すぐ近くでずっと、そんなことが起きてただなんて。未だに信じられない。
……すごいんだね、クリスティアーナは。そんな苦しい中でも、頑張って戦い抜いて……僕たちを、救ってくれた。君は、僕らのヒーローだよ」
二人はあたしの寝室を出て、裏庭の石垣に、隣同士に腰掛けて、晴れ渡った青空を見上げていた。あたしはもう白魔女の装いから、普通の服に戻っていた。静かな風が、あたしの髪を揺らす。
「……どうだろう……でも、違うよ。シャルルを救うことは、できたかもしれないけど」
あたしは溜息をついた。
「やっぱり、思い返してみると、あたしは全然正義の味方なんかじゃなかった。むしろ、その逆みたいなことだって、今までいっぱいしてきた……。あたしだって、悪い奴だったの。『黒魔女K』。まるで全てを救った英雄みたいに、無条件に褒め称えていいような、そんな存在じゃない。サンドリーヌと、私とは――本質的には、何も変わらない」
「そうかな」
シャルルが、遥か遠い空を、ぼんやりと見つめながら言った。
「そのサンドリーヌって奴は、自分がずっと連れ添ってきた人を殺したんでしょ? クリスティアーナは……そんなことする奴じゃない。全然別物だよ」
「でも、あのままだったら、いつかはそうなってしまっていたかもしれない」
あたしはシャルルの肩に頬をよせた。
「自分ですら、それに気づかないうちに。怖いの、シャルル……正義を貫こうとしている人が、無意識のうちに、悪になってしまう……それほどに怖いことって、やっぱり無いと思う。多分サンドリーヌだって、ずっと昔には、自分が将来そんなことする奴になるだなんて、夢に思わなかったはずなの。本人がどういう人生を歩んできたのかなんて、あたしには分からないけど……きっと、彼女らにだって、何か辛い過去があったんだと思う。サンドリーヌに限った話じゃない。この世界の黒魔女、全員、一人として……」
あたしは、シャルルの腕を、ぎゅっと握った。
「多分、ああなりたくて、ああなったわけじゃないの」
二人とも、しばらく、何も言えなかった。風が草を揺らし、木々をざわつかせ、ほのかな冷たい緑のにおいを、二人のもとにまで運んできた。鳥の声がした。日差しがどこか眩しかった。
「……変わろうと思う、あたし」
あたしは続けた。
「それに、変えようとも思う。これから先、あたしが、白魔女として戦うにしたって……今まで通りのやり方じゃいけない気がする」
あたしは、シャルルの顔を見据えた。
「黒魔女は、これからも、きっと無限に現れ続ける。それを、終わりが見えるわけでもなく、湧いて来るたびに、ひたすら潰し続けるっていうのは……それはどこか、違う気がするの。確かに彼女たちは、社会から見れば、ただの『悪』かもしれないけれど……もっと大きい何かが……その更に奥深くに潜んでる。一度は黒魔女だった、あたしだからこそ……彼女たちの視点に立って、今だから言えること。
レティシア・オラールのこと、覚えてるでしょ……? 或いは、あたしがこんな風になっちゃった原因の、ミカエリスたちの行い。そういったこと……社会の『闇』……それのせいで、一部の人が、生きる希望を奪われ、生きる手段も失い、半ば投げやりな、自己破壊的な絶望に憑りつかれ……そうして産まれるのが……黒魔女だとしたら。
多分、仮に悪魔がこの世からいなくなったとしても、『黒魔女』の存在は消えないの。仮に、どこか別の世界があって、そこには魔法が無かったとしたって、彼女らは、魔法の杖と、災厄の魔術の代わりに、どこからか盗んできた鋭利なナイフを携えて、劣悪な環境が産んだ『犯罪者』っていう形で、どうせこの世に現れ続ける。でも、彼らだって、彼女らだって、そうやって産まれてきたわけじゃない。っていうことは……あたしの役目は……白魔女の役割は。
この世の『根本的な悪の温床を浄化すること』。黒魔女を産んでしまう環境を正すこと。戦乱で荒廃した村。教会や悪徳商人に騙されて、奴隷にされて、破滅した人々。その類の物を、どうにか、正さないと。そうしなければ、きっと、何も変わらない。白魔女の戦いは、あたしの戦いは終わらない」
シャルルが、驚きで目を見開いて、あたしの顔を見つめていた。そうだ――恐らく、今までずっと恵まれた環境で育ってきた彼は、そんなこと、思いもしなかったんだろう。いや、あたし自身そうだ――こんな経験を経た、今のあたしだからこそ、初めてこんなことに気付けるんだという気がした。
「あたし――世界を、変えたい。黒魔女を倒すんじゃなくて……それ以前に、黒魔女が最初っから生まれないようにする、そういう風に。もう二度と、第二、第三の黒魔女Kが、この世に産まれることがないように。黒魔女になるのは、本人だって、とても、とても可哀想だから。
まだ、あたしが気付けてないこと、この問題について知らないことは、世の中にいっぱいある筈。そんな簡単に片付く問題じゃないし、全部が自分にできるとは思わない。あたしは、自分にできることだけでいいから……ささやかなことでいいから……精一杯、これから、頑張ってやっていこうと思う。
シャルルにも、できれば、手伝って欲しいかな。ジネットにも、少し、このことは話したの。ちょっとずつでいいから、新しく生まれる黒魔女の数が減って行けば、世の中だって更に安定して、悪魔との契約をせざるを得なくなるほど追い込まれる人の数だって、きっと、徐々に減ってゆく。いい具合の循環を、この手で作って行きたいと思う」
「……すごいや」
シャルルが、ハハハハハ、と笑った。
「やっぱり、クリスティアーナはすごいや。そんなこと、考えたことも無かったけど……言われてみれば、きっと、そうなんだろうね」
涼しい風が、髪の中を吹き抜ける。あたしはもう既に、自らの道を見定めていた。それはそう、人生で初めての経験で――とても、嬉しかった。
「……これからも、気をつけてよね」
シャルルが呟いた。
「ずっと、君と一緒にいたい。君が売られることが無いように、僕も工夫する。可能なら、これからは……君も……他の、人達も……」
人達、というのは、他の奴隷のことだろう。
「……もっと、扱いをよくしてあげたいし。それに、お母さんから代が変わって、僕になったら――この手の事業は、スパッとやめることにするよ。……前から一応、その気ではあったんだけどね」
「ありがとう」
あたしはシャルルの肩に頭を乗っけた。互いの手を握る。
「シャルル、大好き。愛してる。全部、シャルルのおかげだよ……あの戦いを終わらせることが出来たのだって、他の人のために、あたしが何かをやろうっていう気になれたのだって、全部、全部、シャルルのおかげ。シャルルみたいな、素敵な人と一緒になれて、本当によかった」
「ありがとう。僕も、クリスティアーナのこと愛してる」
シャルルは微笑んだ。
「君みたいな立派な人と一緒で、僕は幸せだよ」
「シャルルーーっ!!」
後ろから声がした。シャルルがハッとして後ろを向く。
「お昼ご飯もうできてるわよ!!早く来てね、シャルル!!」
『主人』の声だ。シャルルが、あたしに意味ありげに苦笑いして、石垣から飛び降り、芝生の上に着地した。
「じゃあ、一旦行ってくるよ、クリスティアーナ。これからも、頑張ってね」
「うん。頑張る」
「じゃ……」
最後に一回だけ、互いに身を乗り出して軽くキスをした。それからシャルルは、今行くよー、と、家の中に声をかけながら、戸口を開け、屋敷の中に入って行った。
あたしも石垣から降りて、気持ちいい背伸びをした。緑になびく風。晴れ渡った空。私が守りきった世界。これからあたしが、更にいい方向に、変えていきたいと思う世界。こんなにも明るく、眩いように感じる――新たな未来が、あたしの目の前に開けてゆく。破滅の炎によってもたらされる、偽りの楽園の未来なんかじゃない。あたしが望む、創造の果てにある、よりよい世界。より明るい未来。そう考えると、白魔女になって、本当によかったなって思う。あたしにも、きっとこれからは、こんな素敵なことができる。
……そろそろ、かな。
空を見上げていると、その向こうから、青空を駆けて、彼女がやってきた。新しい箒に乗って一直線に蒼穹を抜けてくる、ジネット・レッド・ベネット。今は魔女の服じゃない、普通の私服の、こじゃれた赤い薄着のジャケットを着ている。あたしが手を振ると、彼女も手を振り返してきた。高度をどんどん下げてゆき、あたしの隣に降り立つ。
「おーっす」
「お、おーっす」
なんて返せばいいのか分からなくて、適当に返してしまった。
「えっと……ジネットちゃん、もう、行っちゃうんだよね」
「オウ。ホントはあたしだってもうちっとのんびりしたいが、やっぱ甘いんだよな。昨日の夜に言った通り、あたしはもうこの後は支度だけして、このサン=ノエルを出発する。お師匠様の家は、もうあんたに預けた」
ジネットは関節をコキコキと鳴らした。
「あたしには見るべき物が沢山ある、やんないといけないことが沢山ある、そしてもうお師匠様がいなくなってしまった今は、一人で一から鍛え上げるしかない。それにはやっぱり、一度世界を見てみるのが一番有効なのさ。お師匠様も言っていた、若いころは自分もそうやって世界を旅して回ったんだって。色んなところを巡って、色んな人と出会って。そうやってく中で、心も身体も、強くなってみせる。何時かはお師匠様も超えて、史上最強の白魔女、みたいになりてぇんだ」
「……すごいね、ジネットちゃん」
「すごいってかなぁ。やる気だけはあるぜ」
「次に会えるのって、いつかな」
「さぁな。何年か先だろうと思う。当分ここに戻るつもりはない」
「寂しいね……」
ジネットが目を閉じて、ははは、と、笑った。
「まぁ、そりゃあ、あたしもな。でも逆にだからこそってのもある。一人で十分強くなってみせねぇと、何時かはあたしだって大人の白魔女になって、何十年後の話になるか知らねーけど、弟子を取ることになるんだ。その時までにやっぱ、十分、この背中をカッコよくしとかねーといけねぇだろ?」
彼女の赤い髪を、風が吹き抜けてさらさらと揺らした。彼女はこちらを向いて、気持ちよく笑った。
「あっ……そうだ」
あたしはとあることを思い出して、聞いてみた。
「念のため聞くんだけど。もうあたし白魔女になったから、仮に教皇庁からの調査団が来ても……」
「オウ。あんたは探知されねぇよ。『謎の失踪を遂げた』サンドリーヌ・ファミリーが全ての元凶だったっていって終わりだな」
「よかった……」
これでしばらくは安泰だ。
「まぁじゃあ、クリスティアーナ」
ジネットがにやりとした。
「一旦ここでお別れだ。元気にしてろよ!!」
「うん。ジネットも、元気でね」
「オウ!!」
ジネットが片手を差し出した。がっしりとそれを握り返す。
「元気でな、クリスティアーナ。頑張ろうぜ。あんたはあんたにできること。あたしはあたしにできること。精一杯やって行って、成長していって、この世界に二人で変革をもたらそう。次に会うときを、精々楽しみにしてろよ」
「望むところね。こっちだって、負けないんだから!!」
「へっ。そりゃあお互い様だな。絶対に忘れんなよ、クリスティアーナ――お前の力はいつの日か、世界を変えることになる!! だからこれからも頑張って行こう。共に何時の日かまた逢おう」
ジネットが何歩か前に歩いていき、指先を複雑に空中で動かした。彼女を真っ赤な炎が包み込み、それが晴れると、白魔女の装束になっていた――金縁の赤いノースリーブジャケット、風にはためく短いスカート、脚のラインをきゅっと強調するニーソに、石段にカツンと響くハイヒール。手を横にかざした。その中で、新品の箒が回転し、一回宙返りをして、地面すれすれに落ちて、空中に留まった。その上にジネットが飛び乗る。最後に一回、あたしの方を向いて、笑った。
「バイバーイ、ジネットーー!!」
あたしは手を振った。
「また、いつか会おうねー!!」
「オウ!! じゃあな、クリスティアーナ!!」
彼女は前を向いた。箒が赤く燃え上がる。やがてそれが空中に噴き上がり、天高く駆けあがっていった。地図の枠なんかには収まりきらない広い世界を冒険する、一筋の真っ赤な流れ星のように。青空の中へと遠ざかっていき、遠ざかっていき、そしてやがて、消えた。私はその様子を、じっと、ずっと、見つめていた。
ジネットは旅立ったんだ……自分の新たなる可能性を探すために。あたしはここで、サン=ノエルを守り続ける。ウェルティコディアが、あたしに預けた役目を、更に立派に、引き継いでいく。
今はもう心にわだかまりもなく、憎しみも、絶望も、悲しみも存在しない。神様ですら、もう憎くない。あたしは力強く生きていく。迷いのない心を抱いて明日へと向かう、あたしは一人の白魔女だ。
こうして私は、白魔女Kは、まだ見ぬ眩い未来へと、歩みを進めていくのだろう。
(黒魔女 K 完)




