8. 環境の変化と謝罪
ヴィオラが毎日、夫のアルフォンスを迎えに行くようになってからというもの、世間のレイヴァン夫妻に対する認識は劇的に変わった。
少し前まで二人といえば「顔を合わせれば口喧嘩をしている夫婦」という印象ばかりが先行していた。
屋敷から言い合う声が聞こえた。侯爵夫人が侯爵を叱っていた。そんな話だけが一人歩きし、社交界では「また喧嘩をしたらしい」「夫婦仲はあまり良くないのではないか」と、好き勝手に噂されていたのである。
もちろん、当の二人からすれば心外な話だった。
ヴィオラが声を荒らげていた理由は、いつだってアルフォンスの身体を案じてのことだ。朝食を抜こうとすれば怒り、夜更けまで仕事を続ければ怒り、風邪を押して執務へ向かおうとすれば、なおさら怒る。
一方のアルフォンスも、決して言い返したくて口論になっていたわけではない。妻を困らせたくないと思いながらも「これくらいなら大丈夫だ」「仕事が残っているから」と譲らず、その結果として言い合いになっていただけだった。
互いを思うからこそ生まれる衝突だったのだが、その事情を知る者は多くなかった。
だからこそ、ヴィオラが毎日仕事場まで迎えに来るようになってからの変化は大きかった。
定時になると、仕事場の前にはヴィオラの姿がある。
アルフォンスは仕事を切り上げ、彼女を待たせまいと仕事場をあとにする。
二人は並んで屋敷へ帰り、ときには楽しそうに言葉を交わし、ときにはヴィオラが笑いながらアルフォンスの腕を軽く叩く。その何気ない光景を、多くの者が目にするようになった。
その姿を見れば、不仲だなどと思う者はいない。
むしろ「あれほど仲の良い夫婦だったのか」と驚く者の方が多かった。
仕事一筋と思われていたレイヴァン侯爵が、妻を待たせないよう仕事を切り上げる。
気の強い侯爵夫人と思われていたヴィオラが、毎日笑顔で夫を迎えに来る。
その事実は、どんな噂よりも雄弁だった。
やがて社交界では「仲睦まじいご夫妻」「理想の夫婦」「見ているだけで微笑ましい」といった声が聞かれるようになる。
以前までの噂は、まるで最初から存在しなかったかのように姿を消し、今ではレイヴァン夫妻は羨望の的となっていた。
そして、そんなある日のことだった。
ヴィオラのもとへ届けられた手紙の中に、マリエル・オルブライト伯爵令嬢からのものが混じっていた。
差出人の名を見つけた瞬間、ヴィオラは思わず手を止める。
マリエルは、レイヴァン夫妻の仲が冷え切っているという噂を広めた人物だった。アルフォンスが結婚を後悔しているらしいと、確かな根拠もないまま周囲へ話し、それが今回の騒動の始まりとなった。
ヴィオラとしても、何もせずに済ませるつもりはなかったが、どう対処するべきかは決めかねていた。
マリエルとは茶会で顔を合わせたことすらなく、直接言葉を交わした経験もない。共通の知人を通して呼び出すべきか、それともオルブライト伯爵家へ正式に抗議文を送るべきか。下手に大ごとにすれば、今度は別の噂を呼ぶ恐れもある。
ヴィオラは何度か方法を考えたものの、どれもしっくりとは来なかった。
そんな矢先に届いたのが、この手紙だった。
封筒は飾り気の少ないもので、いつもの社交辞令めいた手紙とは違い、どこか慎重に用意された様子が見て取れた。
ヴィオラはしばらく差出人の名を見つめたあと、静かに封を切った。
手紙には、自らの非を認める言葉が丁寧に綴られていた。
社交界で耳にした噂を鵜呑みにし、自分で確かめることもないまま軽率な発言をしてしまったこと。その結果、レイヴァン夫妻の名誉を傷つけ、多大な迷惑を掛けてしまったことを深く反省していること。
そして最近になって、ヴィオラが毎日アルフォンスを迎えに来る姿を見聞きし、自分がどれほど思い込みだけで物事を語っていたのかを痛感したという。
二人が不仲だという噂は事実ではなく、むしろ互いを大切に思い合う仲睦まじい夫婦だった。自分はその事実を知ろうともせず、根拠のない話を広めてしまったことを恥じている、と結ばれていた。
最後には、許してもらえるとは思っていない。それでも、一度きちんと謝罪だけは伝えたかったと、そんな一文が添えられていた。
その手紙を読み終えたヴィオラは、小さく息を吐いた。
「……仕方がないわね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
謝罪が届いたからといって、今回の出来事がなかったことになるわけではない。根も葉もない噂を広められ、アルフォンスまで余計な気遣いをする羽目になった事実は変わらない。
それでも、ヴィオラはこれ以上この件を引きずるつもりにはなれなかった。
ようやくアルフォンスとの問題が一段落したばかりなのだ。
彼の働き過ぎをどう止めるかで悩み、体調を崩した彼を看病し、夫婦で何度も話し合い、ようやく穏やかな日常を取り戻した。その苦労を思えば、今度はマリエルと新たな揉め事を始める気力など残っていなかった。
ただでさえ疲れたのだ。
これ以上、誰かと言い争うために時間を使うくらいなら、その時間をアルフォンスと穏やかに過ごしたい。
ヴィオラが望んでいたのは、誰かを言い負かすことでも、相手を社交界で追い詰めることでもない。
夫と笑い合える、いつもの日常だったのだ。




