7. ヴィオラの作戦
数日後、アルフォンスは仕事へ復帰した。
療養を終えたばかりということもあり、ヴィオラからは決して無理をしないよう何度も念を押されている。アルフォンスも今回は素直に頷き、少なくとも以前のように朝から晩まで働き続けるつもりはなかった。
しかし、仕事場へ戻れば、休んでいた間に溜まった書類が彼を待っていた。
机の上には領地から届いた報告書や、議会で扱う予定の資料が積まれている。療養中にヴィオラが手伝ってくれたとはいえ、それですべてが片付いたわけではない。
アルフォンスは朝から順番に書類へ目を通し、必要な指示を書き加えていった。途中で休憩を取ることも忘れず、昼食もきちんと食べた。そこまでは、ヴィオラとの約束を守れていたと言っていい。
問題は、仕事を終える時間が近づいてからだった。
「……はぁ」
アルフォンスは羽根ペンを置き、小さく息を吐いた。机の上にはまだ何枚もの書類が残っている。もっとも、それは今日中に終わらせなければならない仕事ではない。
この国は、高貴な身分であろうと「国のため」という名目の下で働くことを当然としていた。侯爵や伯爵は領地を治めるだけではなく、中央でも職務を担い、多くの案件を処理する。貴族だから楽ができるという考えはほとんど存在せず、その積み重ねが近隣諸国を上回る国力を支えていた。もっとも、その裏では働き過ぎる者も少なくないのだが。
アルフォンスも、その一人だった。
今日中に終えるべき仕事はすでに片づけている。それどころか、明日処理する予定だった書類にまで手をつけていた。少しでも余裕を作っておきたい。そんな思いで仕事を進めているうちに、気づけば翌日の仕事まで終わらせてしまう。それが彼にとっては、いつものことだった。
だからこそ、仕事場での信頼は厚い。事務処理は誰よりも速く、判断も的確だった。しかも、自分の仕事を終えれば、その余力を他人へ向ける。困っている者がいれば手を貸し、判断に迷う者がいれば相談に乗る。誰かが残業していれば、自分も席を立たずに最後まで付き合う。そんな姿を何年も見てきた同僚たちは、「困ったらレイヴァン侯爵に相談しよう」と考えるようになっていた。
しかし、アルフォンス本人はそれを特別なことだとは思っていない。ただ、自分にできることをしているだけ。その善意が積み重なった結果、いつしか誰よりも仕事を抱え込む人間になってしまっていた。
やがて、定時が来て、周囲では一日の仕事を終えた者たちが書類をまとめ始め、椅子を引く音や、互いに挨拶を交わす声が聞こえてくる。
アルフォンスは机の上へ視線を落とした。まだ手をつけられる仕事は残っている。以前の彼なら、迷うことなくそのまま席へ残っていただろう。
けれど今日は、ヴィオラから決して無理をしないよう言われていた。
「……今日は帰るか」
そう呟き、羽根ペンを置く。明日の分まで少し進めてあるのだから、ここで切り上げたところで誰かが困るわけではない。アルフォンスは書類を整え、上着を手に取って席を立った。
そのまま仕事場を出ようとした時だった。
「レイヴァン侯爵、少しよろしいでしょうか」
背後から呼び止められ、アルフォンスは足を止めた。振り返ると、同じ仕事場に勤める伯爵が、厚い書類の束を抱えて立っていた。
「あぁ、すまない。仕事は明日にしようと思う」
アルフォンスは穏やかにそう答えた。
伯爵は意外そうに目を瞬かせる。
「ですが、侯爵でしたらすぐに終わるかと……」
その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスはふと窓の外へ視線を向けた。
仕事場の正面には、一人の女性が静かに立っていた。
淡い色の外出用ドレスを身にまとったヴィオラが、両手を重ねながら出入口へ視線を向けている。
「……そういうことか」
アルフォンスは小さく呟く。
ようやく、ヴィオラが言っていた「考え」の意味を理解した。
彼女は病み上がりの自分が無理をしていないか、その目で確かめるために迎えに来たのだろう。
だが、それだけではない。
妻が仕事場の外で帰りを待っている。その状況そのものが、「今日はもう仕事を終える時間だ」と周囲へ伝えることになる。外で待つ夫人を横目に、新しい仕事を頼もうとする者はそう多くない。アルフォンス自身も、「妻を待たせているので」と言えば、気兼ねなく断ることができる。
無理に仕事を断らせるのではなく、自然と頼みづらい空気を作る。
それがヴィオラの作戦だった。
アルフォンスは小さく笑うと、伯爵へ向き直る。
「すまない。妻が迎えに来ているみたいでね。今日は残れない。急ぎの案件なら持ち帰ってやることにするよ」
伯爵も窓の外へ目を向け、ヴィオラの姿を見つけると納得したように頷いた。
「いえ、急ぎではないです」
伯爵は苦笑しながら首を横に振った。
「奥方をお待たせするわけにはいきませんから。こちらは明日で十分です」
アルフォンスは申し訳なさそうに頭を下げると、伯爵も「お気になさらず」と笑って自席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、アルフォンスは書類を革鞄へしまい始める。急ぎの案件があれば持ち帰るつもりだったが、幸い今日はその必要もなさそうだった。
机の上を整え、忘れ物がないことを確認すると、仕事場をあとにする。
扉を開けて外へ出ると、夕暮れの柔らかな風が頬を撫でた。
「アルフォンス!」
待ちわびていたように、ヴィオラが小走りで駆け寄ってくる。
「お疲れさま。今日はちゃんと帰ってきてくれたのね」
「ああ。約束したからね」
二人は自然と並んで歩き始めた。
仕事場から少し離れ、人目が少なくなったところで、ヴィオラはそっとアルフォンスの袖を引く。
「少しかがんでくれる?」
「ん?」
アルフォンスが身をかがめると、ヴィオラは口元を耳へ寄せ、小さな声で囁いた
「……どう? 効果あった?」
その表情は、悪戯が成功した子どものようにどこか得意げだった。
アルフォンスは思わず笑みを浮かべる。
「本当にありがとう。助かったよ」
あの場で仕事を断れたのは、自分の意志だけではない。
仕事場の外でヴィオラが待っていてくれたからこそ、「今日は帰る」と自然に口にすることができたのだ。
「それは良かった」
ヴィオラは満足そうに微笑むと、背伸びをした。
「えっ――」
アルフォンスが反応するより早く、ヴィオラは彼の頬へ軽く口づける。
「ご褒美」
そう言って照れくさそうに笑うヴィオラに、アルフォンスも困ったように笑みを返した。
「明日も迎えに来るから、ちゃんと帰ってきてくださいね」
「ああ、約束するよ」
二人は肩を並べ、夕暮れに染まる街をゆっくりと歩き始めた。仕事の話をしながら笑い合うその背中は、以前よりも少しだけ近くなっているように見えた。




