鯨井莉乃 3
「ここまでくれば簡単には見つからないかな――希和君、だいじょうぶ?」
「は、ははは。男子たるもの、これしきの事で弱音を吐いたりはしないものさ」
「強がりを言えるのは元気な証拠だけど、膝が笑ってるよ?」
客に安心とくつろぎの時間を与えるために宿側が最低限の人員しか配していないことをいいことに、丑三つ時の深夜二時に敷地から抜け出した鯨井と僕。
一縷の望みをかけて少し離れた崖の上から宿の様子を窺っていると、きっかり一時間後に数台の車が玄関に停まって、中から数人の男が降りてきた。
その中の一人を見た鯨井がわずかに動揺したことから鯨井父と追手たちと確信、少しでも距離と時間を稼ぐために夜間の逃走劇を開始して、今に至る。
「それにしても、夜の山に入ろうって言い出した時はおかしくなったのかと思ったよ。頭のいい希和君が暗闇の怖さを知らないはずがないし。まさかちゃんと準備してたなんて」
「一流の宿のコンシェルジュは、相応の金を払えばたいがいの頼みを引き受けてくれるからね。夜間のトレッキング用の装備一式を前もって用意してもらったんだよ」
「……改めて思うけど、希和君って何者なの?」
「すごいのは僕じゃなくて両親だよ。腹の立つことにね」
ここはひとつ両親への嫌悪感を示すために顔を背けたいところだけど、追手から発見されないように最小限まで光量を絞ったヘッドライトだけが山道を踏み外さない唯一の頼りである以上、感情的になるのは得策じゃない。
ましてや、これから目的地で行うことを考えると平常心こそが成功のカギであって、あの二人の顔を思い浮かべることはナンセンスでしかない。
……いや、今日この時に限れば僕たち以上の愚か者は中々いないな。
「着いた、のかな。暗くてよく分からないけど」
「あそこに看板がある。うん、ここで合ってるみたいだ」
宿から脱出して数時間、山を越えてさらに歩いて夜明け前のうっすらと水平線に光が差し込む頃に、僕と鯨井は目的地にたどり着いていた。
「絶景だね。これで悪路じゃなきゃ観光スポットになるんだろうけど」
「誰も来ないきれいな景色だからこそ、私みたいな人が来るとつい死にたくなるんだよ」
小高い岸壁の先に一面の海が広がっている。
そして、僕の視界の端には道の脇に立てられた看板。
そこには命の大切さを訴える文言と、最寄りの警察署の電話番号が書かれている。
つまりここは、ネットでちょっと調べただけで出てくる程度の自殺の名所だってことだ。
と同時に、ちょっと調べただけじゃ出てこないもう一つの特徴がある。
「この辺りは海岸沿いにしては水深がある上に海流が穏やかでね、自死を図って勢いよく飛び込むと生存率は九割を超えるらしいんだよ」
「だから希和君はここを選んだんだね。私がお父さんから解放されて、お母さんとまた暮らせるように」
死亡する可能性が一割以下だろうがなんだろうが、女子高生がクラスメイトを道連れに崖から飛び降りれば、警察は無理心中と判断するだろう。
加えて、両親が離婚してから生きるのがつらいという趣旨をSNSでほのめかしたりしておけば、鯨井父に世の批判が集まることは想像に難くない。
そうなれば親権が母親の手に移る可能性が高くなり、うまくいけば鯨井は晴れて自由の身になる。
これが、僕が立てた計画だ。
「あとは、宿に残してきた書置きが見つかって、警察に通報が行くかどうかだけど……」
「念のため、美和にも頃合いを見て警察に相談してくれるように言っておいたから大丈夫だよ。場所が場所だから海の上からも捜索隊が出ると思うけど、そこは天に運を任せるしかないね」
「じゃああとは、ここで警察の人が来るのを待つだけだね」
そう言って近くの岩に腰かけた鯨井が手招きするので、僕もその横に座る。
まるで、登校前に待ち合わせた恋人同士のような距離感で。
「ありがとうね、希和君。こんな危険なことに付き合ってくれて」
「どうしたの、改まって」
「希和君とちゃんと話せるのは、多分ここが最後だと思うから。お礼を言っておきたかったの」
「確かに、僕たちが見事に死に損なって警察に保護されたら、ふたりきりで話ができる機会があるとは思えないね」
「だから一つだけ聞かせて。どうしてこんな頼みを引き受けてくれたの?」
「それは前に言ったとおりだよ。僕は美和の頼みを断らないことにしてるんだ」
「それだけで、自分の命をかけられる人はいないと思う」
「けど、ほかに理由なんてないしな……」
「どうでもよかったんでしょ、学校も親も妹も自分もなにもかも」
一瞬、鯨井が何を言っているのか分からなかったが、すぐに僕に向けられたものだと気づいた。
それくらい、明るく社交的で品行方正な鯨井には似合わない、真っ黒なセリフだった。
「勉強も友達付き合いもうまくやれていて、衣食住に不安がなくて、妹から頼りにされていて、なんとなく自分の居場所もあって、何一つ不自由はないはずなのに、ふと気づくとぜんぶ台無しにしちゃおうかって考えてる自分がいる」
「僕は、そんなこと……」
「わかるよ、私もそうだもん」
心なしか、鯨井の瞳が暗い。
その瞳こそ朝日を反射してキラキラと光っているけ喰らい尽くでは精も根も喰らい尽くすブラックホールみたいに何も映してなかった。
「本当はね、お父さんから束縛を受けてるの、そこまでいやってわけじゃなかったの。でも、離婚して家を出て行ったお母さんから、お父さんと同じくらい大好きだったお母さんから一緒に暮らしてほしいって連絡がきた時、分からなくなっちゃった」
「……」
「ねえ、私どうしたらいいと思う? このままお父さんと暮らすか、お母さんの所に行くか。きっとどちらかを選んだら、どちらかとは二度と会えなくなっちゃう。そうなったら多分きっと、私の体は二つに引き裂かれてバラバラになる。ううん、そうじゃない、きっとバラバラになっちゃったから、希和君と今こんなことろにいるのよ」
そう言った鯨井が立ち上がって、歩き出す。
一歩、また一歩と、崖に向かって進んでいく。
そうして命の淵に足をかけたところで振り返った。
「たとえばさ、希和君。やり方さえ間違わなければほとんど危険はないウソの自殺計画だとしても、うっかり足を滑らせてこの下の岩礁に激突して即死してもおかしくはないよね」
「……うん、そのくらいのリスクはないと警察に信じてもらえないと思ったから」
「だったら、私と一緒に死んでくれない?」
「それは……」
僕は即座に反論しようとして、鯨井の見透かしたような眼に黙らされた。
朝日の向こうの暗黒に魅入られた少女が、手を差し伸べながら笑っていた。
「生きていようが死んでいようが同じなんだよね、希和君は。それなら断る理由なんてないはずだよ」
「そんなことはない、よ」
「いっしょだよ。私と希和君は同類。普通に人生を送れているように見えて、その実だれよりも自分は普通じゃないと自覚して悩んでるタイプ」
「そんなこと……」
「いま、二人してここでこうしてることが何よりの証拠だと思わない?」
「……そうだね、それは莉乃の言うとおりだ」
普通の高校生は狂言自殺なんかしないし、ましてや地元から遠く離れた断崖絶壁まで足を運ぶほどのやる気を出さない。
そんな異常性が周囲にバレないように上手くやってきたつもりの僕だけど、鯨井に見つかってしまったことで無意識のうちに心の枷が外れてしまったのかもしれない。
そうでもなくちゃ、僕という本性を言い当てられたとしても素直に認めるはずがない。
僕は誰かに許しを請いたかったのだ。
「じゃあ行こうよ、希和君」
「うん、莉乃」
逆光で真っ黒な鯨井の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
水平線から完全に離れつつある太陽の眩しさにちょっと立ち眩みを覚えながら一旦、確かめるようにゆっくりと引き返す。
そして、崖の淵から十歩ほど手前に二人して立ったところで、
「莉乃」
「……なに?」
「ありがとう」
「希和君の馬鹿」
会話後のいっせーのせ、の合図で絶望へと駆け出し、飛び込んだ。




