鯨井莉乃 2
「おかえり」
「お風呂、お先にいただきました」
「浴衣に着替えたんだ」
「せっかく温泉に来たんだから、って思って。似合う?」
「浴衣の襟足からちらっと覗くうなじは好きだよ」
「それって褒めてるの?」
ここは九州地方のとある県にある温泉宿の一室。
いわゆる隠れ家的な宿で、僕と鯨井の他には老夫婦の客が一組だけ。
従業員も教育が行き届いていて、本来なら高校生にしか見えない(実際そうだけど)男女に投宿を許すなどありえないどころか最寄りの交番か警察署に通報する義務があるはずなのだが、予約の連絡を入れた人物を信用してかその気配は全くなく、一人前の大人と変わらないもてなしを受けている。
「それにしてもすごいお宿だね。さっき仲居さんに聞いたら、玄関にあった掛け軸、三千万もするんだって。客も私たちを含めて二組しかいないのに、どうやって利益を出しているんだろ?」
「こういうところは客を選ぶからね。基本的にネットで検索しても出てこないし、一見は断ってる。顧客の紹介でしか泊まれないようになってるらしいよ」
「そんなお宿にコネがあるって、希和君って実はすごいお金持ちだったり?」
「コネも金も、持ってるのは母親だよ。僕はいたって平均的な中流家庭の暮らししかしてない」
「それ、矛盾してない?」
たしかに、この温泉宿の予約を取ってくれたのも、ここまでの二人分の旅費を都合してくれたのも、紛れもない僕のお母さんだが、そこに親子の情があるかと言えば大いに疑問がある。
本来、夫と協力してこなすべき家事は二人の子供に丸投げして、年がら年中国内外を飛び回って旅行三昧の、およそ人の親とは思えない人生を送っている。
有体に言って無職のお母さんなのだが、どうやら何十もの会社の株を保有しているらしく、少なくともお父さんから資金的援助を受けている様子は全く見られない。
そんなお母さんの定宿の一つがここで、電話一本で未成年二人を宿泊させるという離れ業をしてのけた理由だった。
「いまお茶淹れたところだけど、いる?」
「うん、ありがと。……あ、おいしい」
「客室に置いてあるお茶缶でもこのクオリティって、何気にすごいよね。でも、こういう細かいところが積み重なって、満足感とか安心感に繋がってるんだと思うよ」
「うん、ちょっと分かるかも。こんな時だっていうのに、ほっとする」
そう言う鯨井の表情は柔らかい。
昨日、父親の過干渉に耐えかねて一世一代の家出をした女子高生とはとても思えない。
僕はどうだろう、家出の手助けという未成年でも誘拐略取の罪に問われかねない行為に手を染めているんだが、いつも通りの顔をしているだろうか。
「それで鯨井さん、これからの予定なんだけど」
「莉乃って呼んで」
「え、いやでも」
「宿の台帳には家族ってことにしてるんだから、希和君だけ名字で呼んでたら怪しまれるでしょ。私も希和君のこと呼び捨てにするから、希和もそうして」
「……莉乃」
「うん、まあ合格ってことにしてあげようかな。あ、でも、私がお姉ちゃんだからね」
「もうなんでもいいから任せるよ」
……なんかこれ以上会話もしたくないくらいに疲れた。
理解され難いかもしれないが、コミュ力の低い陰キャは相手のランクが高ければ高いほどにバッテリーの消耗スピードが上がるのだ。
鯨井と温泉宿で一晩を過ごす事実が学校で噂になったら、と想像しただけで胃がキリキリと締め付けられる。
ここはひとつ、ゆっくりと温泉に浸かって身も心もドロドロに溶かし切りたいところなんだが、そうも言っていられない。
これは世を憚る逃避行なのだから。
「くじ――莉乃、そろそろスマホに連絡が来る頃だと思うんだけど」
「うん、実はさっきから通知が止まらなくて、電源切っちゃった」
「警察に通報するかな?」
「世間体を気にする人だからそこまでしないと思うけど、私の家出自体が初めてのことだからもしかしたら、ってところかな。それにしても、よかったの?」
「なにが?」
「ここに来るまでスマホの電源を切らなかったこと。わたし言ったよね、お父さんがスマホにGPS入れてるからすぐに居場所がばれちゃうって」
「今できた姉のことは、血の繋がった方の姉から聞いてるよ」
情報通にして聞き上手の美和によると、鯨井父の娘への執着ぶりは狂気じみた域にまで達しているらしく、二十四時間常に監視するためなら違法行為も躊躇わない質とのこと。
間違いなく、ありとあらゆる手段を講じて鯨井を確保するために動くだろう。
対して、たかが未成年の学生である僕たちにできることは極めて限られてくる。
警察や児相を始めとした公権力は、完全にあっちの味方。
被扶養者の僕たちが、外面だけは立派な国家公務員に資金力で敵うはずもなく。
追ってきたところを罠にかけて暴力に訴え出れば一矢報いることくらいはできるかもしれないが、それは鯨井父単独であることが大前提であり、警察なり非合法な人員なりを同行させていたらその時点で詰みだ。
なにより鯨井は、身の破滅と引き換えに父親を道連れにしようとまではしていない。
あくまでも鯨井の生活から父親を排除することが望みなのだから。
「おそらく莉乃の父親は、夜中のうちにここまで来て莉乃を連れ戻そうとするだろう。僕たちが逃走する可能性を織り込んでるだろうから、それなりの人数を同行させてくるはず」
「私もそう思う。問題は、その同行者がどんな種類の人達になるかだけど……」
「たぶん、警察に協力を要請するんじゃないかな。非合法な組織に頼るのはちょっと考えにくい」
「そうなの?」
「いま僕たちが泊ってるのは一見さん御断りの高級宿なわけなんだけど、こういうところは得てして土地の権力者との結びつきが強くてね。強引に客に手を出そうとすれば思いもしない火傷を負いかねない。特に中央の役人ほど嫌われやすい人種はいないから、正攻法で莉乃を取り戻そうとするんじゃないかな」
「でも、警察だろうとそうじゃない人たちだろうと、どのみちあの人に捕まってしまう結末は変わらないんじゃないの? それじゃ、そんなんじゃ……」
鯨井の言いたいことは分かる。
僕たちが必死に抵抗しても途中経過が多少変わるだけで、大きな流れに影響はしない。
権力も財力も暴力も鯨井父に味方している以上、この逃避行は初めから負けが決まっている戦いだ。
だったらどうするか。答えは一つだ。
「莉乃、駆け落ちした二人が行きつく先ってなんだと思う?」
「……ごめん、考えたこともない。私は、希和君に断られたらほかに作戦なんかなかったから」
「僕を選んだことが正しかったかどうかはさておいて、ひとつ考えてることはあるよ」
「なに?」
「莉乃、僕と一緒に死んでくれる?」
駆け落ちの結末は、心中しかない。




