鯨井莉乃 4
「来たわよー、ほれ、お土産」
「ありがとう。入院生活って思ったより暇でさ―って、なにこれ……?」
「希和が好きそうな小説。マンガじゃすぐに読んじゃうでしょ」
「その気遣いはまったくもって正しいしありがたいの一言だよ。でも……」
「ひょっとして憧れの同級生と十年ぶりに再会した人妻モノじゃ抜けないって?」
「そもそも官能小説を頼んだ覚えはないっったあ!!」
「バカにはつける薬もないわね」
と思わず叫んでしまうと同時に背中に鈍い痛みが走って必死に耐えていると、美和の容赦のない言葉が降りかかってきたが、僕は知っている。
全身の傷が原因で熱にうなされて睡眠と覚醒を繰り返していた昨日までの数日間、この双子の姉がほとんど付きっ切りで看病してくれていたことを。
僕としては素直に感謝を口にしたいところだけど、ツンデレな性格の美和が喜ばないことを十五年ほどかけて理解していたので、退院後に何らかの形でお返しするプランを秘かに練っているところだ。
ただ、その前に確かめるべきことがあった。
「ところで美和、聞きたいんだけど」
「莉乃のことなら、手紙を預かってるわよ。その前に、私が知ってることを当たり障りない範囲で教えてあげる」
「やれやれ、やっとか」
「絶対安静って言われてたケガ人に原因になった話なんかできるわけないでしょ。そうじゃなくても、看護師さんの目があったんだから」
「よく考えたら、ICUに入るなんて貴重な体験をしていたっていうのに、当の本人はほとんど覚えていないっていうのも勿体ない話だよね」
「バカ、くだらない御託並べてないでちゃんと聞きなさいよ」
ざんねんな生き物を見るようにそう言った美和の話は、おおむね僕が予想していた通りだった。
僕たちが身を投げたその時、実は莉乃の追手と警察が別ルートから同時に崖上に到着していたらしい。
さすがに事が公になったらまずいと思ったのか追手はその場から逃走、だが然る筋からの通報で緊急は配備の準備を進めていた警察の網から逃れることはできず、数時間後に確保された。
そして、中央からやってきた警察官僚の関係者達と地元警察との間にどんな話し合いがもたれたのか知らないし知るつもりもないけど、どうやら莉乃の追手たちは大人しく引き下がったそうだ。
翌日、なんと直接乗り込んできた莉乃の父親が強引に娘の身柄を引き取ろうとしたけど、そこに待ったをかけたのは僕と美和がよく知る人物だった。
「父さんの愛情はわかりにくいのよ」
僕が所持していた学生証から地元警察の連絡を受けたお父さんは、表向きは自殺未遂を起こした息子を心配する父親として、裏では冷徹かつ狡猾なビジネスマンとして立ち回ったらしい。
「父さんがどうやって手に入れたのか知らないし知りたくもないけど、莉乃のお母さんに連絡して引き取らせたんだって」
「でも、親権は父親の方にあったはずだよね」
「そこは心中未遂の原因になった父親ってことで、警察や役所も杓子定規に莉乃を渡すわけにはいかなかったみたいよ。父さんも、莉乃の父親が悪役に見えるように色々と手を回したようだし」
「まあ、鯨井の口から詳しい事情を聴くような段階になれば、困るのはあっちの方だからね。そうなる前に引き下がらざるを得なかったんだろう」
「で、莉乃は母親のところに身を寄せてる。父親の方は、この件が上司にバレないように地元の警察や議員なんかに口止めして回ってる真っ最中ってわけ。私から言えるのはこのくらいかな」
「うん、ありがとう美和。おおよそのことは把握できたよ」
「それよりあんた、あとで父さんに電話の一つでも入れときなさいよ。怪我のこともそうだけど、あれでけっこう父親として心配してるんだから」
「普段なら断るところだけど」
「おい」
「今回は美和に借りを返すためにも、お父さんに連絡するよ。メッセージくらいは」
「はー、なんでウチの男どもはこうも面倒くさいのか理解できないわよ」
そんな愚痴と共に踵を返そうとした美和が、ポケットから白い封筒を取り出してベッドの上に放り投げてきた。
「忘れるところだった、ほら、手紙」
美和はそのまま僕の返事も聞くことなく、病室を出て行った。
さすが双子の姉、僕が一秒でも早く手紙を読みたいことを理解していた。
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希和君へ。
この手紙が届いている頃には、私は住み慣れた家を離れてお母さんのところに身を寄せているはずです。
そして○月中には、お母さんといっしょにアメリカに渡ることになると思います。
くわしいことは分からないんだけど、希和君のお父さんが大きな弁護士事務所をお母さんに紹介してくれて、お父さん側との話し合いを進めています。
その弁護士さんから、お父さんとの接触を避けるために今までの家や学校を含めて、立ち寄っていたところには近づかないようにと強く言われました。
なんでも親権の変更はとても難しく、調停を不利にしないためには必要なことだそうです。
たぶん、日本を離れるまで学校のみんなや美和ちゃん、希和君と会う機会はないと思います。
それからもう一つ、彼氏役をお願いしたせいで、希和君にはこの先も迷惑をかけてしまうと思います。
学校で色々と言われるのはもちろん、街でも噂になっちゃうかもしれません。
本当は私の方からフォローしたかったんだけど、できることはなさそうです。
でも希和君は、こうなることが分かってたんだよね。
計画を立てた時には結末が見えていたんじゃないかと、今になって思います。
いや、結末は二つ用意されていたんじゃないかな?
あのとき、私が少しでもためらっていたら。
崖から跳ぶスピードを緩めて希和君の手を引っ張っていたら。
私は父親のDVに嫌気がさして彼氏を巻き込んで世を儚んだ心中女子高生として、世間を騒がせて終わっていたと思う。
それでもいいと心のどこかで思っていたこと、そんな私の願望を希和君に見抜かれていたことも、なんとなく分かってた。
お父さんからの束縛に心底嫌気が差していたのも本当だけど、私を置いて家を出て行ったお母さんのことも恨んでた。
二人の関係が元に戻らないなら私の居場所はどこにもない、だったら私の生まれた意味もない。
大好きなのに。大好きだったのに。でも大嫌いになれないのに。かなしい、くるしい。
そんな時に、希和君のことを聞きました。
最初はびっくりしちゃった、美和ちゃん、昨日見たドラマみたいに普通に話すんだもん。
だけど、希和君のお母さんに対する感情が私に似てるようで、少しずつ気になってきて。
だから、付き合ってみたいと思ったのは半分本当で。
あとの半分は未遂だけど一線を越えた希和君なら私の望みをかなえてくれるかもしれないと思って、声をかけたの。
結果をみれば、希和君は私の王子様じゃなかった。
死神様じゃなかったといった方が正しいかな?
希和君は私と一緒に落ちてくれるつもりなんか最初からなくて、死の淵を飛び越えるように力強く引っ張ってくれた。
勘違いしないでね、決して嬉しかったわけじゃないから。
警察の船に海から引き上げられて、思ったよりも軽傷で退院するまでの三日間、色々な感情が渦巻いていたけど、ふと心が軽くなってることに気づいたの。
それでやっと、希和君の狙いはこれだったんだってわかった。
もちろん腹が立たないわけじゃなかったけど、私も本心を隠してたんだからお互い様だよね。
だから謝りません、希和君にも謝ってほしくありません、今は。
いつになるか分からないけど、次に会う時に他愛のない世間話の中で「そういえばあの時はさ」みたいに雑談のひとつとして笑い飛ばせる日が来るように、希和君という偽物の彼氏の思い出を秘かな支えにして、アメリカに行きたいと思います。
ありがとう。さようなら。
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三度、美麗な字体で書かれた手紙を読み返したあと、僕は美和が持ってきた袋からもう一つの差し入れを取り出す。
僕が目覚めるのが遅かったのか、父親から一日でも早く離れるためか、鯨井の手紙の通りに事が進んでいればすでに母親と一緒に日本を離れていることだろう。
だとすれば、鯨井の本心を知る術はこの手紙だけということになる。
それなら、僕の取るべき行動はひとつしかない。
鯨井、鯨井は自分のことを莉乃と呼んでほしいと望んでいたけど、僕にそのつもりはなかった。
少なくとも心の距離は離すために、上辺だけで彼氏を演じていた。
僕と鯨井は似た者同士じゃない。自ら命を絶つことと他者を排除することとじゃ天と地ほどの、天国と地獄ほどの差がある。
自害は地獄行きと某宗教では言われてるけど、僕はそうは思わない。
人を殺そうとしている人間はどうかしているし、どんな理由があっても本当に実行したら一生かかっても償いきれない罪を背負うことになる。
だけど、やむにやまれない事情でこの世から消えざるを得ない人には救いの手が差し伸べられるべきだ。
神や天使じゃなく、同じ人間が。
今回はたまたま僕に役が回ってきて、ほぼ他力だが解決するだけの能力があった。
それだけの話だ。
「鯨井、君はまだ死から遠すぎる」
ベッドのそばにある金属製の収納。
その一番上の引き出しを開けて手紙を置き、美和が差し入れてくれたライターで火をつける。
これで鯨井が父親という檻から、完全に抜け出せることだろう。
逆に、僕というフィルターを通して手紙を残すことで父親との繋がりを完全には切りたくない気持ちもあったのかもしれないが、そんなのは僕の知ったこっちゃない。
生きる道があるなら脇目も振らずに生きるべきだ。未練がましく未練を残すな。
僕はそのために選ばれたんだろうから。
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三分後、燃える手紙から生じたわずかな煙が運悪く火災報知機に引っかかって病院中で警報音が鳴り響き、ほどなく犯人が突き止められ担当看護師さんと婦長さんにこってり絞られた後、焦げ跡が消えない収納の弁償代を請求されたとこで美和にも露見し、愛ある双子の姉の鉄拳制裁を受けたことは鯨井には内緒にしておこうと思う。




