変わるもの
食事の時間は、どうしても苦痛だった。
病院の食事は味が薄く作られている。味すら楽しめない上に、私に出される食事は決まって流動食で、食感すら楽しむことができない。
曖昧になった記憶の中の、サクッとしたリンゴを恋しく思うのは、これで何度目だろうか。
すり潰されてどろっとしたものが喉を通る感覚には、もうだいぶ慣れてしまった。けれど、口に残る異物感は拭えない。
二週間に一度、担当医に診てもらう。それ以外の時間は、特にすることがない。
本を読む日もあれば、看護師の予定が合えば、行く当てもなく院内を歩くだけの日もある。
ただ、ベッドに横たわるだけ。それが生きていることなのか、死んでいることなのか。自分でも分からなかった。
自然とナースコールに手が伸びていた。数分も経たずに、部屋に看護師が入ってくる。
「どうしましたか?」
「今日、体調がいいから……少し、体を動かしたい」
看護師は唖然とした表情を浮かべてから「分かりました。確認してきますね」と言い残して、部屋を出て行った。
私が自分から何かをしたいと望むのは、珍しいのかもしれない。最後に自分の要望を言ったのは、もう覚えていない。
今日、あの少年は来ているのだろうか。
「今日はいい天気ですね」
広い窓から差し込む光を見て、付き添いの看護師が言う。ええ、そうね、と相槌を打った。
昨日は雪が降っていた。あまり雪が降らないこの街。窓から見る世界は白く、緑が美しいこの街の様相を大きく変えていた。叔父様から頂いたカーディガンを羽織って、廊下を歩く。
自動ドアが開く。温度差で冷たい風がロビーに吹き込んだ。
「お身体に障りますよ」
息を吸って吐く。白くなる。
触れた経験の少ない冷たさだった。
「いいの。もう少しだけ、この冷たさを」
数ヶ月ぶりの外は、光を反射して目が眩むようだった。積もった雪は白いカーペットのように広がっていて、一歩踏み出すたびにシャリと音を立てて跡を残す。
昨日は風が強かったのかな。
屋根のあるベンチに積もった雪を見て、そんなことを思った。雪を払って座り、一息つく。自然と目線が上がって、視界に空が広がった。
葉が落ち、雪の積もった枝と流れていく雲。どれも窓から見る景色と違っていて、新鮮に見えた。
自動ドアの音と、車椅子の音がして、そちらを見る。
あの日の少年が、出てきたところだった。
眺めていると、こちらに気がついたようで、少し驚いた顔をしていた。私は思わず手招きをした。
私の足跡の横を通るように、二本の線が入口から続いていた。
彼は私が座るベンチの隣に来て、私と同じ景色を見ていた。
「こんにちは」
「こん……にちは」
困惑した声が返ってくる。それも仕方ない。一度、目が合っただけなのだから。
「リハビリに?」
「えぇ、まぁ」
そこで会話が途切れた。打算も計算もなく、ただの好奇心で話しかけたのだから。少年が居心地悪そうに目を逸らす。
「……あの、俺のこと知ってるの?」
「ううん。でも、先月リハビリ室で見かけた」
「……そうなんだ」
また会話が途切れる。少年はどうしたものかとそわそわしていて、私もどう話しかければいいか分からなかった。
「……俺、明星斥」
明星斥。そんな名前だったんだ。私も名乗ろうとすると「よろしく、綾瀬さん」と言われて、少し驚いた。
「何で私の名前を?」
「あぁ、ごめん。前、リハビリに来た時に担当の人から聞いたんだ」
「……そう」
強めの風が吹き抜けて、少し体が震えた。
「寒くない?」
私の格好は薄手の病衣にカーディガンを羽織っただけ。真冬には不釣り合いな、薄着をしていた。
「少し……でも、この寒さがいい」
「……変わってるな」
変わっていると言われるのは、もう慣れた。
「そうかもしれないね」
私は小さく笑った。明星君は苦笑いを浮かべて、それから少しだけ表情を緩めた。
雪を踏む音が、時折聞こえる。誰かが病院に入っていく足音。出ていく足音。
「明星君は……リハビリ、どう?」
「まぁ、うん。少しずつ」
明星君は言葉を濁した。聞いてはいけないことだったのかもしれない。
「そっか」
また、沈黙。でも、さっきよりは少しだけ自然な沈黙だった。
空を見上げる。灰色の雲が流れている。雪は止んでいて、でももしかしたらまた降るかもしれない。
「……なぁ」
明星君が口を開く。
「綾瀬さんは、ずっと入院してるの?」
「うん。もう何年も」
「……そうなんだ」
明星君は何か言いかけて、でも結局何も言わなかった。
「明星君は?」
「俺は……週に一回、リハビリに通ってる」
「じゃあ、また会えるかもしれないね」
明星君は目を丸くして、少しだけ笑った。
「……ああ、そうだな」
ぎこちない笑顔だったけれど、悪い感じはしなかった。
看護師が病院の入口から手を振っているのが見えた。そろそろ戻る時間なのだろう。
「私、もう戻らないと」
「ああ、気をつけて」
「ありがとう」
立ち上がる。少しふらついて、明星君が手を伸ばしかけたけれど、大丈夫、と手を振った。
「また、ね」
「……うん、また」
病院の入口へと歩き出す。数歩歩いて、振り返った。
明星君はまだベンチの上で、こちらを見ていた。手を振ると、少しぎこちなく振り返してくれた。
病室に戻ると、相変わらず白い天井が私を迎えていた。ベッドに横たわって窓の外を見ると、また雪が降り始めている。白い雪がゆっくりと舞い落ちていく。
困ったような顔をして、それでもぎこちなく笑って手を振ってくれた人。
そんなことを思い出しながら、私は静かに目を閉じた。




