溶けるもの
雪が溶け始め、突き刺すような冷たい風に落ち着きが見え始める頃。
蕾が大きくなり、屋上の花壇に彩りが見え始めた。
杖がないと不安定な時があるが、私が歩けるようになってから、1年と少しが経つ。
地面を踏む感覚には、まだ慣れない。
雪を踏むしゃりとした感覚も、コンクリートの硬い地面も、こうして、花を愛でるために屈むことも。
「もう蕾も開く季節かしら」
そんな独り言は、誰に拾われるわけでもなく消えていく。蕾を撫でていると、看護師さんが時間だと言って、院内へ誘導する。
定期診察。いつもと変わらない、ただの確認作業。
「失礼します」
ノックして、返事も待たずに中へ入る。担当医の梔子先生は「どうぞ」とカルテを見ながら言った。椅子に座った私を見て、先生は問診を始める。
「有希さん、調子はどうですか?」
「……変わらないです」
頷きながらキーボードで打ち込んでいく。問診を終えると、心拍を始めとした軽い診察を行って、また電子カルテに書き込んでいく。数値からあまり大きく変動していないことは、一目でわかった。
「うん、ちょっと前からずっと体の方は安定しているね」
先生はそう言うと、私の顔を見た。何度目か分からない、毎度同じことを繰り返しているだけ。けど何故か、先生の声色がいつもと違う気がして、首を傾げた。
「有希さん、少し話があるんだけど」
先生は考えるような顔をして、それから口を開いた。
「通学を考えてみない?」
「え?」
唐突だった。前にそんな話は出ていなかったし、何より私自身、考えたこともなかった。
「……どうして、急に?」
「急じゃないよ。ずっと様子を見ていたんだ」
先生はカルテを開いてみせる。
「ずっと体調が安定しているし、軽い運動程度なら体に影響もない。何より、有希さんは15歳、普通なら学校に通っている年齢なんだよ?」
「……学校」
たしかに私は15歳で、本来なら高校生として学校に通っていてもおかしくない。けれど、私の中で学校とは本の中の舞台でしかなく、私が通う姿なんて想像もできなかった。
授業、教室、クラスメイト。そしてできるかもしれない友達。どれも知識として知ってはいるが、自分のこととして想像ができなかった。
「有希さんのお父さん、瑞希さんの学校はサポート体制を備えているの」
先生は言葉を選びながら、穏やかな声で続ける。
「もちろん、無理にって訳じゃない。毎日通う必要は無いし、体調を見ながら週に数回だっていい」
そう言って看護師に目配せすると、看護師は扉を開いた。
「有希……」
「父、様……?」
久しぶりに会う父は、記憶の中より少しやつれて見えた。
言葉が詰まり、私が何を言うよりも先に、父様が口を開いた。
「先生から聞いた。身体の調子、良いみたいだな」
なんて答えればいいか分からなかった。
今の感覚が、良いのか、悪いのか、わからないから。
父はそう言うと、鞄の中から冊子と見慣れない服を取り出した。
それが制服だと認識するのに時間がかかった。
「採寸は合わせてある。サポートしてくれる人も用意した。後は有希次第だ」
机に置かれた冊子を手に取る。
それは学校のパンフレットだった。ページを開く。その時初めて、父の学園を見た。私立篠宮高等学園。ガラス張りの大きなエントランスに大きな照明、エレベーター、古さの中に趣のある校舎。今を取り入れながら伝統を大切にしている様子がひと目でわかった。
パンフレットを置いて、そっと制服に手を伸ばす。
思ったより軽かった。
初めて触る質感に違和感を覚えながら広げる。紺をメインにしたセーラー。襟は白く、紺色のラインが入っていて、左胸に小さく校章が入っている。
硬い生地の、触れ慣れない手触り。この制服が私を連れ出すのだと。
驚きはあった。けれどそれ以上に、私の心は静かだった。
「私……が通っても、いいの?」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。父は少し目を見開いて、困ったように眉を下げた。
「できるかどうかは、やってみなければ分からない。けれど」
父は一度言葉を切って、私の目を真っ直ぐに見た。
「私は、お前に外の世界を知ってほしい。この病室の窓からじゃなく、自分の足で」
その声は、記憶の中の父より少し掠れていて、けれど確かな熱を持っていた。
どうして今まで会いに来なかったのかとか、どうして今になって学校なのかとか、聞きたいことはたくさんあった。
けれど、父のその目を見ていたら、そんな言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
「……はい」
頷くと、父は表情を緩めた。
「来週、学校が春休みに入る。その時学校を見に行こう」
父はそう言うと、私の頭にそっと手を置いた。
少しだけ、身体が強ばる。
「無理はしなくていい。辛くなったら、いつでも言いなさい」
「はい」
父は名残惜しそうに手を離すと、梔子先生に軽く頭を下げて、部屋を出て行った。
扉が閉まって、静けさが戻る。梔子先生が「良かったね」と微笑んで、私もそれに小さく頷いた。
病室に戻ると、菜奈さんが制服を掛けながら鼻歌を歌っていた。
「おかえりなさい、有希さん」
「ええ、ただいま」
ベッドに腰掛けて、菜奈さんにお茶を入れてもらう。
「聞きましたよ、学校に通うんですね」
コップを傾けながら、私は小さく頷いた。
「良かった……本当に、良かった」
菜奈さんの声が震えているように聞こえて、顔を上げると、目元が赤くなっていた。
「菜奈さん?」
「すみません、つい……」
菜奈さんは慌ててエプロンの端で目元を拭う。
「有希さんが生まれた時から、ずっとお傍にいましたから。こうして学校に通えるようになるなんて……」
言葉を詰まらせながら、それでも菜奈さんは笑っていた。
私のことで泣いてくれる人がいる。その感覚が、よく分からなかった。
「大袈裟よ」
「大袈裟なんかじゃありません」
菜奈さんはきっぱりと言い切って、それからまた目元を拭った。
「……ねぇ、菜奈さん」
「はい?」
「菜奈さんは、学校に通っていたのよね」
菜奈さんは驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「えぇ、普通の公立ですけれど」
「どんな所だった?」
菜奈さんは考えるように視線を上げた。
「そうですね……楽しかったですよ。朝、友達と待ち合わせをして、一緒に登校して。授業中にこっそり手紙を回したり、お昼は皆でお弁当を食べたり」
菜奈さんの目が、遠い日を懐かしむように細められる。
「放課後に寄り道をして、何も買わないのにお店を覗いたり。テスト前に慌てて勉強会を開いたり。他愛もないことで笑って、些細なことで喧嘩して、でも次の日には何事もなかったみたいに話して」
その言葉の一つ一つが、私の知らない世界だった。
「……楽しそう」
「楽しかったです。でも当時は、それが当たり前だと思っていました」
菜奈さんは寂しそうに笑った。
「大人になってから気づくんです。あの時間がどれだけ特別だったか」
特別。私にとっては未知のもの。けれど、菜奈さんの話を聞いていたら、少しだけ、本当に少しだけ。
楽しみかもしれないと思った。
「有希さんにも、そういう時間ができるといいですね」
菜奈さんはそう言って、温かい目で私を見た。
「……そうね」
窓の外に目を向ける。空はまだ青く、太陽は高く、病室に日が差している。
外から浴びる光はどんなものなのか、ほんの少しだけ、知りたくなった。
「失礼します」
軽く目元を拭ってから、菜奈さんは部屋を出た。
壁のフックに掛けられた制服を眺める。
金の刺繍で縫われた校章が、光に反射して眩しく見えた。




