触れるもの
特別病棟。その言葉を聞いたことがある人は多いと思う。けれど、実際に見たという人はきっとそう多くない。
私にとっては、自室みたいなもの。
私の世界は六畳しかない。
身の丈に合わない大きなベッド、枕元の間接照明、一度もつけたことのない大きなテレビ、無駄に置かれたレンジと冷蔵庫。そして脈拍を刻み続ける心電図。
静かな空間に、電子音と秒針の音が規則正しく響いている。
この音がなければ、この部屋はひどく静かだろうと思う。息をするのも憚られるくらいに。
息を吐いて、ページを捲る。意味もなく詰め込んだ知識が、また増えていく。
こんなものは所詮、気を紛らわせるためだけのもの。
小さい頃は、いつか外に出られる日を夢見ていた。けれど手術を繰り返すたびに、その夢は少しずつ色褪せていった。いつの間にか、期待することをやめていた。期待しなければ、失望することもないから。
生まれてから三分の二の時間をこの部屋で過ごしている。
昨日読んだ小説の主人公は、死にかけた友人のために走った。先週読んだ小説の主人公は、苦痛に喘ぐ人のために命をかけた。
どの物語にも、誰かが誰かのために生きる使命があった。
私には、ない。そう思うと、本のページが少し遠くなる気がした。
差し込む陽光が朝を告げている。
何処へ行っても、ガラスが私を世界から切り離す。
この部屋を出ても廊下には窓が付いていて、病院から出てもすぐに車に乗せられる。
窓からの世界しか、私は知らない。空調で管理されたこの部屋では、雪の冷たさを知る事は出来ない。
はぁ、とちいさく息を吐く。白くならない。
私はこの六畳と少ししか世界を知らない。
それで生きていると言い切れるのか、私にはわからなかった。
新人の看護師達が廊下で話しているのを聞いた。私の実家は、どうやら大きな家らしい。
生きているだけ。そんな私が、何の役割を持って生きればいいのか。答えは、私の中に無かった。いくら考えても、出てこなかった。
ドアに目線を向けた。
そこには、記入の少ない面会記録の紙があった。
午前6時40分。そろそろ朝の検診の時間。読みかけの本に栞を挟んだ。
「おはようございます、有希さん」
ガラガラと遠慮なく入ってきたのは菜奈さん。
生まれてからずっと私の専属使用人だった。入院が決まった時、気づいたら看護師免許を取って、私の担当になっていた。いつの間に、と思ったけれど、この人ならそうするだろうと納得した。
「バイタルは……問題ないわね。体温測るわよ」
病衣の胸元を少しはだけさせて体温計を挟む。少し冷たい金属の感触と、アルコールの匂い。
それと、ほんの少しの香水の香り。七種と書かれたネームプレートが光を反射した。
ピピッと小さな音が鳴る。
「35.8度、いつも通りね」
菜奈さんはそれだけ言うと、手早く記録をつけて部屋を出て行った。必要なことだけをして、去っていく。いつもそうだった。
私の体温は低い。鼓動が弱いから。看護師の手を借りて立つことがあるが、いつも冷たいと言われる。自分では、よくわからない。
私は両親にあまり会わない。面会を拒絶しているわけじゃない。両親が忙しいから。父はグループの会長で、学園の理事長でもある。
母も元々は父の秘書で、今も多忙な父のサポートを行っている。最後に会った日から一年は経つ。毎日声をかけてくれる看護師の方が、よほど人柄を知っている。
きっと両親は、丈夫な体に産めなかったことへの後ろめたさか、どんな顔をして会えばいいかわからないのか、そんなところだと思う。
最後に会ったとき、どこか遠慮するような表情をしていた。私もきっと、同じ顔をしていた。
天井を見て、真っ白な光で、少し目をすぼめる。
何も無い部屋で、天井を見る癖が、どうしても抜けない。
私がこの病室を出ることはそう多くない。
看護師の手間を増やしてしまうから。前に出たのは、一週間ほど前。
あの日は定期診察の後、気分転換にリハビリ室へ行った。
軽いものだが、脆いこの体には充分な運動だった。いつもとは違う窓を眺めながら休憩をしていると、聞き慣れない声が聞こえた。
老人の声しか聞こえないリハビリ室に、若い男性の声。振り返る。
車椅子を横に置いて座る、17、8歳くらいの少年がこちらを見ていた。
その瞳には、哀れみも好奇心もなかった。
今まで向けられたどの目とも違っていて、私にはわからなかった。
私の知らないその目が、少し不気味で、不思議で。
だから私は窓の外に目を戻した。
あの視線の正体を知りたい。
そう思ったことに、少し戸惑っていた。




