冷たいもの
バスの窓に額を押し付ける。白く曇ったガラスの向こうは、雪が覆っていた。
「今年は異例の寒さ」
ニュースでそう言っているけれど、毎年同じことを言っている気もする。
この街、篠雪市は、名前に反してほとんど雪が降らない。けれど今年は違った。街路樹に積もった雪が、歩道に寄せられた雪が、妙に目新しく映る。
いつもと違う景色。それが嬉しいのか、それとも。
バスが停まる。「すみません」と前に立つ人に声をかけた。スマホを見ていた女性が、一瞥してため息をつく。運転手がスロープを出してくれる間、車内の空気が微妙に変わるのがわかった。
誰かの舌打ちが聞こえた気がして、俺は息を止めた。
世界は理不尽なもので溢れている。
この車椅子だって、好きで乗ったわけじゃない。思うように動かない足も、背中に刺さる視線も、全部。
バス停から病院の自動ドアまで、数十メートル。
手が悴んで、指が開かなくなる。およそ1分の移動で、指先が痛んだ。冷たい風が首元に入り込んで、思わず肩をすくめる。それだけで、少し息が上がった。
週に一回、俺はリハビリのためにここに通う。
元に戻るかどうかもわからない足を、それでも動かしに。
自動ドアが開いて、暖かい空気が頬を撫でる。吹き抜けのロビーに、グランドピアノの音が響いていた。綺麗な音だった。けれど、きっと誰かの退屈を紛らわせるためのものだ。等間隔に並んだ観葉植物の間を通って、受付に向かう。
悴んだ指で診察券を取り出そうとして、何度も指が滑った。受付の人を待たせてしまう。
「すみません」と言う自分の声が、また少し小さくなった。
「明星さん、どうぞ」
少しの待ち時間の後、通されてエレベーターに乗り込んだ。鏡張りの壁をなるべく見ないようにした。
冬休みは意外と退屈だ。クリスマスも正月も、結局は家族と過ごす時間ばかり。俺もそうで、親戚と馬鹿みたいに騒ぐのは楽しかった。妹が走り回るのを眺めながら、一緒に走ったこともあったっけ、と思った。
楽しいことがあれば、その分だけ嫌なこともある。俺にとってはこのリハビリが、それだ。
望んでなったわけじゃない。昔から足は速い方で、サッカー部のエースをしていた。本当なら、今だって走ることができたはずだ。なのに今では両端の手すりに掴まって、1分かけてたった2メートルを何度も往復する。情けない、とは思わないようにしている。思ったら、止まれなくなる気がするから。
「おはようございます、斥くん。今日もよろしくお願いします」
「はい……お願いします」
宇多見さんは余計なことを言わない。「頑張って」とか「きっと良くなりますよ」とか、そういう軽い言葉を、この人は口にしない。だから、息が詰まらない。この病院に来て、唯一そう思える人だった。
「今日も平行棒を使いましょうか」
リハビリ室は三階にある。平行棒の向こうには、ルームランナーや階段の模型が並んでいた。いつか使う日が来るのだろうか。今の俺には、見えなかった。
平行棒に掴まって、ほぼすべての体重を預ける。冷たい金属の感触が手のひらに馴染んでいた。もう何度も触れてきた感触。
「じゃあ始めましょうか」
右足に力を込める。膝が、わずかに持ち上がる。
それだけで、腕が震えた。
全体重を預けて、足を引きずる。たった数センチ。誰もが3秒で歩ける距離を、俺は1分半かけて進む。歯を食いしばって、視線を前に固定した。下を見たら、止まってしまいそうだから。
「あと少し」
宇多見さんの声が、遠くから届く。その声だけを頼りに、もう一歩。もう一歩。平行棒の端に指が触れた瞬間、全身の力が抜けた。
大きく息を吐く。肩が、じわりと痛んだ。リハビリを始めた頃は立つことすらままならなかった。それに比べれば、と思いたい。
「お疲れ様」
息を吸って吐く。
上がった息を整える。ベンチに腰掛け、差し出されたタオルで滲む汗を拭き取る。
「少し休憩しましょうか」
そう言われて近くのベンチに座り、ペットボトルを開けた。
「瀬名先輩、少しいいですか?」
「わかりました。斥くん、少し外しますね」
俺は頷いて、水を飲む。
少し熱くなった身体に、冷たい水がちょうど良かった。
飲み終わって、手持ち無沙汰に室内を見回す。
俺以外にも患者がいた。高齢の男性が杖を使い、拙いながらも自らの足で歩いている。一歩踏み出すたびに、その顔が少し明るくなっていくのが見えた。
比べるつもりはなかった。それでも、ペットボトルを握る手に少し力が入る。
考えても仕方ないと、視線をずらした。
窓から入り込む光が強くなって、晴れたかなとそちらを見る。
そこに、雪と見紛う白があった。
窓際の車椅子。白く長い髪が、冬の光を受けて透けて見える。彼女は窓の外を眺めていた。何を見ているのか、何を考えているのか。幼い顔立ち。中学生か、それよりも幼くも見える。病衣から覗く手首が、妙に細かった。
「宇多見さん……あの子は?」
戻ってきた宇多見さんに聞く。
「ああ、あの子ね。綾瀬有希さん。ここの院長の姪御さん」
その瞬間、彼女がこちらを向いた。
灰色の瞳には、哀れみも好奇心もなかった。ただ、そこに俺がいることを受け入れているような、そんな静けさがあった。
誰も、そんな目で俺を見たことはなかった。背中に刺さる視線は重い。舌打ちも、ため息も、全部重かった。けれど彼女の視線には、重さがなかった。ただ、静かだった。
彼女は小さく首を傾げて、それから、また窓の外へ視線を戻した。
白い髪が、光を受けて揺れていた。
その後ろ姿から、目が離せなかった。




