雪と足跡
食事の時間は、どうしても苦痛だった。
病院の食事は味が薄く作られている。味すら楽しめない上に、私に出される食事は流動食なのだから、食感すら楽しむことができない。
もう曖昧になった記憶の中の、サクッとしたリンゴを恋しく思うのは、これで何度目だろうか。
すり潰されてドロっとした物体が喉を通る感覚には、もうだいぶ慣れてしまった。けれど、この物体を食べ切るのは辛く、もう少し量を減らしてほしい。いつもそう思いながら、今日も口に残る異物感を水で流し込む。
二週間に一回ほど、担当医に診てもらう。
それ以外の時間は、特にすることもない。
本を読む日もあれば、看護師の予定が合えば、行く当てもなくただ院内を歩くだけの日もある。
ただベッドに横たわるだけ。それが、生きているのか、死んでいるのか。自分でも分からなかった。
生きていることが生命活動を行うことなら、もちろん私は生きている。
けれど、命を無駄に消費することが生きているとは、私は到底思えない。
自然とナースコールに手が伸びていた。
数分も経たずに、部屋に看護師が入ってくる。
「どうしましたか?」
「今日、体調がいいから...少し、体を動かしたい」
看護師は少し驚いたような顔をした。
「分かりました。確認してきますね」と、そう言って、看護師は部屋を出て行った。
きっと、私が自分から何かをしたいと望むのは、珍しいのかもしれない。最後に自分の要望を言ったのは――もう覚えていない。
確かに私の病気は難病であり、比較的重篤な症状。
けれど、だからといって体を動かさないのはストレスが溜まり、それこそ体に悪い。
だから先生に許可をとって、もしくは勧められて運動するタイミングを作る。
今日、あの少年は来ているのだろうか。
「今日はいい天気ですね」
広い窓から差し込む光を見て、付き添いに来てくれた看護師が言う。
「ええ、そうね」と相槌を打つ。
普段は車椅子だが、体調のいい日はゆっくりであれば歩いてもいいと、先生が許可してくれている。
昨日は雪が降っていた。
あまり、雪が降らないこの街。この窓から見る世界は白く、緑が美しいこの街の様相を大きく変えていた。
身体を冷やしてはいけないと叔父様から頂いたカーディガンは、この真冬の厳しい寒さでも少し暖かかった。
「体を冷やしますよ」
「いいの。もう少しだけ、この冷たさを」
自動ドアが開き、温度差で冷たい風がロビーに吹き込む。
数ヶ月ぶりの外は以前見た時とは違って、多くの光を反射して目が眩むようだった。
積もった雪は白いカーペットのように広がっていて、一歩踏み出すたびにシャリと音を立てて跡を残す。
こうして普通に歩けるようになったのは半年ほど前。この一年、私の体は安定している。もう治った、なんて言えないけれど。
昨日は風が強かったのかな、なんて。屋根のあるベンチに積もった雪を見て、そんなことを思う。
ベンチの雪を払って座って一息つく。自然と目線が上がって視界に空が広がる。
葉の落ち、雪の積もった枝と流れていく雲。それと多く建ち並ぶビル。どれも窓から見る景色と違っていて、新鮮に見えた。
自動ドアと車椅子の音がして、そちらを見る。
あの日の少年が、出てきたところだった。
眺めていると、こちらに気がついたようで、少し驚いたような顔をしていて、私は思わず手招きをした。
私の足跡の横を通るように、二本の線が入口から続いていた。
彼はベンチの隣に来て、私と同じ景色を見ていた。
「こんにちは」
「こん...にちは」
困惑の声。それも仕方ない。
1度、目が合っただけの関係なのだから。
「リハビリに?」
「えぇ、まぁ」
そこで会話が途切れる。打算や計算もなく、ただの私の好奇心で話しかけたのだから。
少年が居心地悪そうに目を逸らす。
「...あの、俺のこと知ってるの?」
「ううん。でも、先月リハビリ室で見かけた」
「...そうなんだ」
また会話が途切れる。少年はどうしたものかとそわそわしているようで、私はどう話しかければいいか分からなかった。
「...俺、明星斥」
明星斥。そんな名前だったんだ。
私も釣られて名乗ろうとすると「よろしく、綾瀬さん」と言われ少し驚いて明星君の顔を見る。
「何で私の名前を?」
「あぁ、ごめん。前、リハビリに来た時に担当の人から聞いたんだ」
「...そう」
強めの風が吹き抜けて少し体が震える。
「寒くない?」
私の格好は薄手の病衣にカーディガンを羽織っただけ。真冬には似合わない、かなり薄着だった。
「少し...でも、この寒さがいい」
「...変わってるな」
明星君は少し不思議そうな顔をしている。
変わっていると言われるのは、もう慣れた。
「そうかもしれないね」
私は小さく笑った。
明星君は少し驚いたような顔をして、それから少しだけ表情を緩めた。
雪を踏む音が、時折聞こえる。
誰かが病院に入っていく音。出ていく音。
「明星君は...リハビリ、どう?」
「まぁ、うん。少しずつ」
明星君は言葉を濁した。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
「そっか」
また、沈黙。
でも、さっきよりは少しだけ、自然な沈黙だった。
空を見上げる。灰色の雲が流れている。
雪は止んでいて、でももしかしたらまた降るかもしれない。
「...なぁ」
明星君が口を開く。
「綾瀬さんは、ずっと入院してるの?」
「うん。もう何年も」
「...そうなんだ」
明星君は何か言いかけて、でも結局何も言わなかった。
可哀想だとでも思ったのだろうか。それとも、何と言っていいか分からなかったのか。
どちらでもいい。慣れている。
「明星君は?」
「俺は...週に1回、リハビリに通ってる」
「じゃあ、また会えるかもしれないね」
私の言葉に、明星君は少し驚いたような顔をした。
「...ああ、そうだな」
そう言って、明星君は少しだけ笑った。
ぎこちない笑顔だったけれど、悪い感じはしなかった。
看護師が病院の入口から手を振っているのが見えた。
そろそろ戻る時間なのだろう。
「私、もう戻らないと」
「ああ、気をつけて」
「ありがとう」
立ち上がる。少しふらついて、明星君が手を伸ばしかけたけれど、私は大丈夫だと手を振った。
「また、ね」
「...うん、また」
病院の入口へと歩き出す。
数歩歩いて、振り返った。
明星君はまだベンチに座っていて、こちらを見ていた。
私が手を振ると、少しぎこちなく手を振り返してくれた。
病室に戻ると、相変わらず白い天井が私を待っていた。
ベッドに横たわって窓の外を見ると、また雪が降り始めていて、白い雪がゆっくりと舞い落ちていく。
明星斥。困ったような顔をして、それでもぎこちなく笑ってくれた人。
面白い人だったな。
そんなことを思いながら、私は静かに目を閉じた。




