六畳の世界
特別病棟。その言葉を聞いたことがある人は多いと思う。けれど、実際に見たという人はきっとそう多くない。
けれど私にとっては、自室みたいなもの。
私の世界は六畳しかない。
身の丈に合わない大きなベッド、枕元の間接照明、一度もつけたことのない大きなテレビ、無駄に置かれたレンジと冷蔵庫。そして脈拍を刻み続ける心電図。
静かな空間に無音を許さない電子音が、秒針の音が、規則正しく響く。この音がなければ、この部屋はひどく静かだろうと思う。静かすぎて、息をするのも憚られるくらい。
息を吐いて、ページを捲る。意味もなく詰め込んだ知識が、また増えていく。
こんなものは所詮、死ぬまでの暇つぶし。
昔は、こんなふうには思わなかった。小さい頃は、いつか外に出られる日を夢見ていた。けれど、手術を繰り返すたびに、その夢は少しずつ色褪せていった。いつの間にか、期待することをやめていた。期待しなければ、失望することもないから。
なぜ生まれてきたのか、と。考える事がある。
生まれてから三分の二の時間をこの六畳で過ごしている。
担当医や看護師が持ってきてくれた本の主人公には、使命が、運命が——生きる意味があった。例えば誰かを助けるため。例えば誰かを愛したから。例えば不条理に怒り、抗うため。
私にはない。いや、もしかしたらあったのかもしれない。けれど、もうその何かを追うことはできない。そう思うと、本のページが少し遠くなる気がした。
部屋の窓は東にあり、差し込む陽光は朝を告げている。
何処へ行っても、視界にはガラスがあった。この部屋から出ても廊下には窓が付いていて、病院から出てもすぐに車に乗って家に行く。窓からの世界しか、私は知らない。空調で管理されたこの部屋で、冬の寒さを知ることができない。吐息が白くなることも、手が悴むことも、寒さに身を震わせることも。
はぁ、とちいさく息を吐く。白くならない。
この六畳と少ししか世界を知らない私に、なんの価値があるのか。
新人の看護師が会話しているのを聞いた。私の実家は、どうやら太いらしい。親に生かされている私は、何の理由を持って生きればいいのかと。答えは、いつまで経っても出てこない。
午前6時40分。そろそろ朝の検診の時間。読みかけの本に栞を挟み、ドアに目線を向ける。
「おはようございます、有希さん」
ガラガラと遠慮なく入ってきたのは七種菜奈さん。生まれてからずっと私の専属使用人だった。入院が決まった時——気づいたら、看護師免許を取って、私の担当になっていた。いつの間に、と思ったけれど、この人ならそうするだろうと納得した。そういう人だから。
「バイタルは……問題ないわね。体温測るわよ」
病衣の胸元を少しはだけさせて体温計を挟む。少し冷たい金属の感触と、アルコールの匂いがした。慣れた感触。慣れた匂い。
ピピッと小さな機械音が鳴る。
「35.8度、いつも通りね」
菜奈さんはそれだけ言うと、手早く記録をつけて部屋を出て行った。いつもそうだ。必要なことだけをして、去っていく。それが心地よかった。
私の体温が低い。鼓動が弱いから。看護師の手を借りて立つことがあるが、いつも冷たいと言われる。自分では、よくわからない。
私は両親にあまり会わない。面会を拒絶しているわけじゃない。両親が忙しいから。父はグループの会長で、学園の理事長でもある。
母も元は父の秘書で、多忙な父のサポートを行っている。最後に会った日から一年は経つ。毎日声をかけてくれる看護師の方が、人柄を知っている。
きっと両親は私を恐れている。丈夫な体に産めなかったことへの後ろめたさか、どんな顔をして会えばいいかわからないことか。きっとそんなこと。
最後に会ったとき、どこか遠慮するような表情をしていた。私もきっと、同じ顔をしていたと思う。
ふと思い出す。1週間ほど前のことだっただろうか。
その日は体の調子が良く、気分転換にリハビリ室へ行った。軽いものだが、脆いこの体には充分な運動だった。いつもとは違う窓を眺めながら休憩をしていた時、聞き慣れない声が聞こえた。
老人の声しか聞こえないリハビリ室から、若い男性の声が聞こえて振り返った。
車椅子を横に置いて座る、17、8歳くらいの少年がこちらを見ていた。
その瞳は、哀れみでも好奇心でもなかった。
今までの人とは違う目をしていた。私にはわからなかった。それが少し不気味で、それでいて不思議で、だから私は窓の外に目を戻した。
私はよく本を読む。けれど、何も残らない。物語の主人公が泣いても、笑っても、死んでも——心は何も動かなかった。ただ、時間が過ぎるのを待つための、音のない音楽のようなもの。
だけど私は、初めて思った。
あの震えの正体を、知りたい。
そう思ったことが、少し不思議だった。




