第9話 評価基準の穴
第七課廃止まで、あと29日。
白い、小さな生き物の映像が、頭から離れなかった。
前世の小学校の教室だった。窓際の棚に、平たい紙の箱が置いてあった。箱の中には、桑の葉と、白くてむっちりした幼虫が何十匹も入っていた。担任の先生が、毎朝新しい葉を入れていた。夜になると、幼虫たちが葉を食べる音が、教室中に響いた。
さああ、という音だった。雨が降っているみたいな音だった。
カイコである。
世話当番は、出席番号順に回ってきた。俺の番の日に限って、桑の葉を家に忘れた。その日、俺は校庭の隅の、たぶん桑ではない葉っぱを箱に入れた。幼虫たちは、1匹も食べなかった。黙って、じっと、俺を見ていた。気がした。
あの日から、俺は生き物に対して、仕様を確認してから行動するようになった。
夏休みの前に、幼虫たちは白い繭を作った。先生は、その繭から糸を引き出して見せてくれた。細くて、きらきらした糸が、どこまでも続いていた。
あのとき先生が話してくれたことを、俺は必死に思い出そうとしていた。
*
「カイコは、野生には1匹もいないんです」
俺は、第七課の全員の前で説明した。
「人間が5000年以上かけて、糸をたくさん出すように育ててきた虫です。そのかわり、野生で生きる力は、全部なくしました」
ヨルムさんが、雲のパイプを下ろした。
「全部って、どこまでや」
「羽はあるのに、飛べません。足はあるのに、逃げません。鳥が目の前に来ても、じっとしてます。餌の葉っぱが少し離れたところにあると、そこまで歩いていけなくて、人間が口元に置いてやらないと、飢え死にします」
「あんたの羽と一緒やな」
ヨルムさんが、俺の背中を見た。手のひらサイズの、飛べない羽を。
「……親近感は、あります」
「足はあるのに逃げへんのは」
ヨルムさんの視線が、窓際に移った。舟の模型を磨いている課長が、廃止の通達を受けても席を立たなかった人であることを、課の全員が思い出していた。
「そこは、課長と一緒ですね」
「私は、逃げないのではなく、動かないだけだよ」
課長が、模型を磨きながら訂正した。違いは、誰にも分からなかった。
「……で、それ、生き物として大丈夫なんか」
「野生に放したら、その日のうちに全滅すると言われてます」
ミカさんのそろばんが、ぴたりと止まった。
「では、なぜ5000年も続いているのですか」
「人間が、守っているからです」
俺は、言葉を選んだ。
「糸がほしいから、人間が餌をやって、温かい部屋で育てて、卵を大事に取っておいて、次の年もまた育てる。野生には1匹もいないのに、人間のそばには、数えきれないほどいます」
部屋が、静かになった。
ヨルムさんが、ゆっくり言った。
「見つかったら、使われる。止められへん。……ほな、使われるほど、増えるようにしたらええ、ちゅうことか」
「はい」
この前の赤ペンの答えだった。
*
ただ、1つだけ確かめなければならないことがあった。
「ミカさん。査定規程を見せてもらえますか」
「どの条文ですか」
「『生存』の定義です」
ミカさんは、机の引き出しから、辞書のような分厚い本を取り出した。『生物設計局 査定規程(第38改訂版)』。背表紙に、付箋が100枚以上貼ってあった。
「読んでるんですか、これ」
「趣味です」
ミカさんは、迷いなく1枚の付箋のページを開いた。
「第412条。『生存とは、リリースした魔物が、下界において種として繁殖を継続している状態をいう』」
「下界において」
「はい」
「野生で、とは書いてないんですね」
ミカさんの眼鏡が、光った気がした。
「書いてありません」
「モフルは、王都の屋敷で生きてましたよね。あれは、どうして生存にならなかったんですか」
「屋敷では、繁殖しなかったからです。生きている個体がいても、次の世代が生まれなければ、繁殖の継続とはみなされません。モフルは、森で最後の子供が生まれた日で、生存が終了しています」
つまり。
人間のそばでも、人間の手の中でも、子供が生まれ続けていれば、それは「下界において種として繁殖を継続している状態」なのだ。
「……穴やな」
ヨルムさんが、ぼそりと言った。
「評価基準の、穴や」
「穴です」
ミカさんが、規程の本を閉じた。
「ただし、規程の上では、正当な解釈です。経理として保証します」
予算を握る人が、規程の読み方まで保証してくれた。前世で、これほど頼もしい経理担当に出会ったことはない。
「でも、これ、ずるくないですか。規程の穴を突くって」
言ってから、自分で少し後ろめたくなった。前世の俺は、経費精算の書き方1つで上司に呼び出されるタイプだった。
「ずるくありません」
ミカさんは、即答した。
「局の経理課は、去年、第205条の『会議室は各課に1室』の『各課』に経理課自身が含まれることを根拠に、会議室を2つ増やしました」
「……2つ?」
「経理課と、経理課の会議を準備するための経理課です」
「それ、同じ課ですよね」
「帳簿上は、別の課です」
ヨルムさんが、雲を吐きながら言った。
「上がやっとることを、下がやったらあかん理由はないわな」
「規程の穴は、見つけた者の資源です。見つけられなかった者は、穴に落ちます」
ミカさんの言葉は、経理の格言なのか、ただの実感なのか、判断がつかなかった。ただ、第七課はこれまで、ずっと落ちる側だったことだけは確かだった。
*
設計会議は、それから3日続いた。
1日目は、予算だった。
「本体に、糸を作る器官を載せて、魔素48単位。糸の器官は、体の根幹に関わります」
「残りは」
「53単位です」
ミズヨロイ、モフル、アカマダラ、コタツバチ、(仮)。5体分の予算を使って、残りは53単位だった。糸の器官を入れたら、ほとんど何も残らない。
「飛ぶ力、逃げる力、自分で餌を探す力。全部外します。外す分は、費用がかかりません」
「むしろ、5単位戻ってきます。合計、魔素43単位」
ミカさんが、そろばんをはじき終えて言った。
「残り10単位。承認できます」
窓際で、課長がそっと手を挙げかけた。引き出しの隙間から、要望書の端が見えていた。
「予算はありません」
課長の手が肩の高さに届く前に、ミカさんが答えた。
2日目は、規程だった。
ミカさんが、また付箋のページを開いた。
「第88条。『魔物とは、下界の人間にとって、何らかの脅威となり得る要素を1つ以上備えた生物をいう』」
「脅威……」
飛ばない。逃げない。噛まない。刺さない。毒もない。この仕様書には、脅威が1つもなかった。脅威がなければ、魔物として決裁が通らない。
ヨルムさんが、腕を組んだ。
「何か1個、脅威を足さなあかん」
「予算は、残り10単位です」
それから1時間、脅威の案出しが続いた。
「見た目を怖くする」
「怖い顔は、実装費用が高いです。魔素30単位」
「夜中に、急に鳴く」
「カイコは鳴きません」
「ほな、鳴くようにしたら」
「鳴く器官の追加、魔素12単位。2単位足りません」
「触ると、ちょっとかゆくなる」
「かゆみの毒、魔素11単位。1単位足りません」
「……1単位ぐらい、なんとかならんのか」
「なりません。端数は、許しません」
ミカさんの答えは、1単位の揺らぎもなかった。予算を半額にされた日、局に0.5単位を切り捨てられた人の言葉には、重みがあった。
課長が、手を挙げた。
「舟に乗せるとき、少し重い」
「課長、それは課長の舟の話です」
案出しは、行き詰まった。
「食べる音は、どうですか」
俺は、あの教室の夜を思い出していた。
「カイコが葉を食べる音って、雨の音にそっくりなんです。何十匹もいると、本当に外で雨が降ってるみたいに聞こえる」
「それが、脅威なんか」
「晴れた日に、外に洗濯物を干してる人が、あの音を聞いたらどうなりますか」
ヨルムさんは、しばらく考えて、吹き出した。
「……慌てて取り込みに走るな」
「走ります。で、外は晴れてます。人間にとっては、地味に困ります」
ミカさんは、規程の本と仕様書を見比べて、真顔で言った。
「『何らかの脅威』の範囲に、含まれると解釈できます。食べる音は、もともと出る音です。設定の変更だけなので、追加費用なし」
窓際で、ノア課長が珍しく声を上げて笑った。
「洗濯物への脅威。前例がない」
3日目は、ヨルムさんだった。
*
仕様書の清書を持っていくと、ヨルムさんは、長いこと黙って読んでいた。
「新人」
「はい」
「これ、魔物か?」
ヨルムさんは、仕様書を机に置いた。
「飛ばれへん、逃げられへん、自分で飯も食われへん。人間がおらんと、1日も生きられへん。それはもう、魔物ちゃうやろ。家畜や」
俺は、すぐには答えられなかった。
「竜は、空を飛んだ。1年で狩られたけど、飛んどった。こいつは、何年でも生き残るかもしれへんけど、1回も飛ばへん」
ヨルムさんの声は、責めているのではなかった。確かめているのだった。
「……それでも、ええんか」
窓際の課長が、舟の模型を置いた。
「ヨルムくん」
課長の声は、静かだった。
「私が昔、舟に積んだ生き物たちはね。みんな、自分では舟に乗れなかったんだよ」
ヨルムさんが、課長を見た。
「大雨が来ると分かっていても、自分では逃げられない。だから、つがいで1組ずつ、手を引いて乗せた。狭い舟で、長い間、みんなで揺られた。あの生き物たちが自由だったかと言われたら、自由ではなかったと思う」
課長は、舟の模型を指でなでた。
「でも、雨がやんだあと、あの子たちは、みんな舟から降りていったよ。1匹も欠けずにね」
それだけ言って、課長はまた、模型を磨き始めた。
ヨルムさんは、長いこと黙っていた。
それから、赤ペンを取った。
仕様書に、1か所だけ書き込みがあった。
『名前の欄、ちゃんと書いとき。(仮)はあかん。こいつは、下界の人間に名前を呼んでもらう魔物や』
その下に、もう1行。
『字、今日はまあまあや』
初めて、「汚い」ではなかった。
*
【仕様書】
名称:シラタマ
生息地:人間のそば
体格:指の長さ程度。白くてむっちりした幼虫。成虫は白い蛾
飛行:できない
逃走:しない
採餌:餌の葉は、口元に置かれたものだけを食べる
特殊能力:成長すると白い繭を作る。繭から、細く丈夫な糸が取れる
脅威:葉を食べる音が雨音に似ており、洗濯物を取り込ませる
繁殖:人間が卵を保管し、翌年に孵すことで世代が続く
設計者:真壁
最後の関門は、合議印だった。新種の魔物の決裁には、別の課の課長の印が1つ必要になる。
課長が局の窓口に問い合わせると、返事が来るまでに10日かかった。今期の合議の担当は、第一課だった。
その日の夕方、ルシアさんが、第七課の扉を開けた。今度は、自分から来たのだった。
「新種の合議でしょう。見せなさい」
ルシアさんは、仕様書を立ったまま読んだ。長い爪で、1行ずつなぞっていく。飛行、できない。逃走、しない。脅威、洗濯物。
ルシアさんの眉が、少しだけ動いた。
「……洗濯物」
「洗濯物や」
「第88条の脅威が、洗濯物」
「局の経理のお墨付きや」
ルシアさんは、部屋の隅のミカさんを見た。ミカさんは、規程の本を胸に抱いて、深くうなずいた。
「……ずいぶん、地味ね」
「地味で結構や」
ヨルムさんが、コタツバチのときと同じ言葉を返した。
ルシアさんは、ヨルムさんを見て、それから仕様書の名称の欄を見た。『シラタマ』。
「名前、ちゃんと書いたのね。この前の子は(仮)だったでしょう」
「……知っとったんか」
「図鑑くらい読むわ。下界で名前がついたら終わり、が先輩の口癖だったくせに」
「二つ名と名前は、ちゃうねん」
ヨルムさんは、仕様書の名称の欄を指で叩いた。
「二つ名は、怖がられてつけられる名前や。こいつは、大事にされて呼ばれる名前をもらう魔物や」
ルシアさんは、しばらく黙っていた。
それから、胸元から第一課の印を取り出して、合議の欄に押した。まっすぐ、きれいに。
「長持ちしそうね」
扉が閉まった。
決裁印は、6つ揃った。
「リリース日は、3日後です」
ミカさんが、日程表を読み上げた。
「期末まで、そこから13日。下界時間で、ちょうど91日です」
1日だけ、余る。余裕と呼ぶには、あまりにも心細い1日だった。
俺は、机代わりの段ボール箱の上で、仕様書を両手で持った。字は、まあまあだった。
第七課廃止まで、あと16日。
前世の教室の窓際で、雨の音を立てていた白い虫たちを、俺は今夜も思い出している。あの虫たちは、1匹も飛ばなかった。そして、1匹も、いなくならなかった。




