第36話 竜の寝床
下界出張、13日目。
期限、未定。
山道はベルン村の奥の森から始まっている。
苔むした木々。湿った落ち葉。足を踏み出すたびに靴の下で土がやわらかく沈む。空気がしっとりと重い。
ヨルムさんは森に入ってから一言もしゃべっていない。
雲のパイプもくわえていない。
この森のことは水鏡で何度も見た。ミズヨロイが住んでいた沼。モフルが転がっていた下草。アカマダラが餌にしていた毒虫の茂み。コタツバチが巣を作った木の洞。
全部、この森の中にあった。
そして、この森は100年前まで雨の降らない荒れ地だった。ヴァルナが雨を降らせて、1年で狩られて、その雨が残した森だった。
*
しばらく歩いてから、俺は気になっていたことを聞いた。
「ヨルムさん、飛べますよね」
「飛べるで。天使やもん」
「なんで、歩いてるんですか」
山道は思ったより急だった。俺の息は、もう上がっている。ヨルムさんの大きな翼なら、山のてっぺんまで一息のはずだった。
「この森は、歩きたいんや」
ヨルムさんは、落ち葉を踏みしめながら言った。
「上から見るのは、100年やった。今日は、下から見る日や」
「……羽のある人に歩かれると、羽のない俺の立場がないです」
「あんたの羽は、あるで。小さいだけや」
「装飾用です」
「装飾も、立派な役目や」
慰められたのか、どうなのか、判断に迷った。
森の沼のそばを通る。ミズヨロイが住んでいた沼だ。水面は静かで何も泳いでいない。ミズヨロイは今、北の魔王城の堀で四天王をしている。
沼のほとりの木の枝に、古い網が1枚、引っかかっていた。破れて、色も褪せている。
ミズヨロイをすくった網かもしれない。違うかもしれない。
俺は網を枝から外して、たたんで、背負い袋にしまった。自分でもなぜそうしたのかは分からない。
ヨルムさんは、何も言わなかった。
*
森の奥にひときわ大きな木が立っていた。
幹は、大人が5人で手をつないでも回りきらない。根元は苔に覆われて、根の隙間から小さな水が湧いている。
ヨルムさんが足を止める。
木の幹にそっと手を当てる。
「……100歳くらいやな」
「分かるんですか」
「幹の太さで、だいたいな。設計士やから」
ヨルムさんは幹に手を当てたまま、上を見上げた。枝の隙間から、細い光が落ちてくる。
「ヴァルナと、同い年や」
俺は何も言わなかった。言えることがなかった。
ヨルムさんはしばらくそうしていた。それから、幹から手を離して、根元の湧き水を両手ですくった。
飲んだ。
「……うまいな」
小さな声だった。
「100年前の雨の味がする」
「分かるんですか」
「分からん。言うてみただけや」
ヨルムさんは少しだけ笑った。目の端が光っていた。
「雨が目に入っただけや」
「今日、晴れてます」
「うるさい」
*
森を抜けると、岩場になった。
山道は急になり、足元に白い霧が流れ始める。霧は上へ行くほど濃くなって、やがて雲になった。
竜の雲だ。
雲の中はほんのりと暖かい。湯気の中を歩いているようだ。
「……暖かいですね」
「竜の寝息や。この雲全部、あの子の寝息なんや」
「……ってことは、俺たち今、竜の鼻息の中を歩いてるんですか」
「そうなるな」
「それ、天界で雲を吸ってる人が言うと、説得力ありますね」
「うちが吸うとるのは、上等な雲や。これは寝起きの雲や」
ヨルムさんは、試しに雲のパイプで竜の雲を吸った。
むせた。
「……濃い。寝起きの味がする」
「寝起きの味って、何ですか」
「朝、口の中が一番まずいときの味や」
竜の寝息は、天使でもむせるらしかった。
雲の奥から、低い音が聞こえてきた。
ゴゴゴ。
ドドド。
2種類の音が同時に鳴っている。
「……寝返りの効果音ですね」
「第613ページやな」
俺が1000個印鑑を押した仕様書の、1ページだった。寝返りのたびに「ゴゴゴ」と「ドドド」が鳴る竜。隣で寝る生き物はたまったものではない、と思ったのを覚えている。
今、その隣に向かって歩いていた。
*
山のてっぺんは平らな岩場になっている。
その真ん中に、竜がいた。
全長45m。体を丸めて、翼をたたんで眠っている。真珠色の鱗が雲の中でぼんやりと光っていた。8万枚の鱗の1枚1枚に、霧の粒がついている。
大きかった。
水鏡の中では手のひらに乗る大きさだった。コンペの日、観覧雲から見下ろしたときも、ここまで大きいとは思わなかった。
下から見上げる竜は山そのものだ。
「第一課の部会で見た模型、10分の1でしたよね」
「4.5mのやつな。あんたの話やと、首を傾げて、そのまま倒れたんやろ」
「本物は、あれの10倍です」
「倒れたら、山が1個なくなるな」
ヨルムさんは真顔だった。冗談なのか、どうなのか、判断に迷った。
「……蒼天竜ヴァルナ・改」
ヨルムさんが小さく呟いた。
竜の鼻から、白い雲がゆっくりと吐き出される。吐き出された雲は山のてっぺんに溜まって、空へ昇っていく。寝息がそのまま雲になっていた。
そのとき、竜が寝返りを打った。
ゴゴゴ。
ドドド。
45mの体が右へぐるりと回る。岩場が揺れる。俺たちの立っている場所に、竜の尻尾が迫ってきた。
「新人、こっちや!」
ヨルムさんが俺の襟をつかんで左へ跳ぶ。
尻尾がさっきまで俺たちのいた場所を、ずしんと叩いた。
「……危なかった」
「時計回りや」
ヨルムさんが、息を切らしながら言った。
「仕様書に書いてあったやろ。寝返りは時計回りのみ。反時計回りは、第2版で実装予定」
「……じゃあ、左側にいれば」
「安全や」
俺たちは竜の左側に回り込んだ。第2版はまだ出ていないらしい。第一課の実装の遅れが、初めて命を救っていた。
*
竜の口元がもぞもぞと動く。
「……あと、5分……」
低い、腹に響く声だった。
今日は天界の火曜日らしい。
「ガントさんの言うとおりですね」
「起こしたら、あと5分て言う、言うとったな」
「まだ起こしてませんけど」
「起こしてへんのに言うとるな」
俺は、竜の顔に向かって、前世の課長の声を真似してみた。
「……5分だけだぞ」
「……あと、5分……」
「さっきも5分って言ったよな」
「……あと、5分……」
前世の部下も、同じだった。「あと5分で資料できます」。3時間後に出てきた資料は、表紙だけだった。
「あんた、竜と交渉しとるんか」
「前世の癖です」
「竜の5分は、たぶん下界の1年や。交渉するだけ無駄やで」
寝言だった。竜は誰にともなく、あと5分を言い続けていた。
ヨルムさんが、竜の顔の前にそっとしゃがみ込む。
竜の顔はヨルムさんの背丈より大きかった。閉じたまぶたの鱗が呼吸に合わせてかすかに上下している。
「……ルシアが、作ったんやな」
ヨルムさんは竜の鼻先を見つめている。
「うちの竜を、ここまで」
ヴァルナの仕様書は全項目「かっこよく」だった。ヴァルナ・改の仕様書は、1200ページあった。1198ページ分の、細かすぎる注文の中に、くしゃみと寝言と、時計回りの寝返りが入っていた。
全部、ルシアさんが先輩の竜のために書いたページだった。
ヨルムさんは雲のパイプを取り出した。火をつけて、雲をひとつ吐く。
その雲が竜の鼻の穴にすうっと吸い込まれた。
「あ」
俺とヨルムさんが同時に言った。
竜の鼻の穴がひくひくと動く。
ひくひく。
ひくひく。
「……ヨルムさん」
「分かっとる」
「くしゃみ、ありです」
「かっこよく、や」
2人で全力で竜の左側へ走る。
「……ブェックシュン!」
山のてっぺんの雲が、全部吹き飛んだ。
雲と一緒に、俺も吹き飛んだ。
体が浮く。岩場が遠ざかる。背中の小さな羽を必死にばたつかせたが、1mmも役に立たない。装飾用だった。
落ちる、と思った瞬間、襟首をつかまれた。
ヨルムさんだった。大きな白い翼を広げて、空中で俺をぶら下げている。
「……飛べるじゃないですか」
「飛べる言うたやろ」
「さっき、歩きたいって」
「森は歩く。竜のくしゃみからは飛ぶ。使い分けや」
ヨルムさんは俺をぶら下げたまま、ゆっくりと岩場に降りた。着地した俺の足は少しだけ震えている。前世でも天界でも誰かにぶら下げられて空を飛んだことはない。26歳で、天使に、初めてだった。
*
雲が晴れた山頂から、下界が見えた。
森が広がっていた。ベルン村の屋根が小さく見える。川が光っている。その向こうにグラナ村の白い布。ガントさんの丘。さらに遠くに王都の城壁。
全部、見えた。
水鏡で上から見ていた景色を、今は横から見ている。空の高さから、下界の高さまでほんの少し降りてきた場所。
「……俺の魔物、全部、この景色の中にいるんですね」
「うちの竜の雨でできた森の中に、な」
ヨルムさんが岩の上に腰を下ろす。竜の左側。寝返りの届かない場所。
竜はくしゃみのあと、また眠っていた。何事もなかったように、あと5分と言っている。
「新人」
「はい」
「うち、ここで5分、休むわ」
「5分」
「竜が、あと5分て言うとるやろ。付き合うたらな、失礼や」
ヨルムさんが竜の脇腹にもたれかかる。竜の体は雲の寝息でほんのりと暖かい。
5分たった。
ヨルムさんは寝ている。
10分たった。竜もヨルムさんも寝ている。
1時間たった。竜が「あと5分」と言った。ヨルムさんが寝言で「……あと5分」と返した。
竜と天使様が交互にあと5分を言い合っている。前に水鏡で見た、カエルと勇者のようだった。
俺は、起こさない。
竜が、寝返りを打った。
ゴゴゴ。ドドド。
時計回り。竜の体が、ヨルムさんから離れる方へ転がっていく。もたれる相手を失ったヨルムさんが、ゆっくりと横に倒れた。
起きなかった。
俺は、背負い袋をヨルムさんの頭の下に差し込んだ。中には、沼で拾った網がたたんで入っている。網の枕だった。ミズヨロイには申し訳なかった。
昼過ぎ、腹が減ったので重箱の4段目を開けた。竜のおにぎりが並んでいる。
1個取り出したところで、竜の鼻がひくひくと動いた。
寝たままだ。寝たまま、鼻先がおにぎりの方へ、ずるずると寄ってくる。
「……食べます?」
竜の鼻先に、竜のおにぎりを1個置いた。
竜は、目を閉じたまま、口を少しだけ開けた。おにぎりの尻尾の方から、ぱくりと食べた。
尻尾から。
第一課の食堂の決まりは、竜にも適用されているらしかった。仕様書の1200ページのどこかに、書いてあったのかもしれない。
竜の左側の岩に座って、出張報告書を書いた。
出張報告(下界13日目)
業務:竜の視察
成果:竜は元気。寝返りは時計回りのみ(反時計回りは未実装)
所感:ヨルムさんが、寝ています。
最後の1行は字をまっすぐにしようとして、少しだけ時間がかかった。
*
夕方、天界の鳩が来た。
竜の雲の中を迷わずに飛んできたらしい。筒の中には、紙が1枚。金色の縁取りのある、上等な紙だった。
『水鏡で見ています。先輩を、起こさないであげてください。第2版は、来年出します。 第一課』
短い手紙だった。紙の隅に小さな字で追伸があった。
『あの竜は、先輩の竜を一度も超えられませんでした。でも、先輩が寄りかかれるくらいには、大きく作りました』
俺は手紙を2回読んだ。それから、ヨルムさんのパイプの横に、そっと置いた。
ヨルムさんが目を覚ましたのは、日が沈みかけたころだった。
「……何分、寝とった」
「5時間くらいです」
「5分て言うたのに」
「竜も、5分って言いながら100回くらい寝てました」
ヨルムさんは手紙に気づいた。黙って読んだ。追伸も読んだ。
それから、手紙を丁寧にたたんで、胸のポケットにしまった。女神様の「もっと!」の手紙を丸めて押し込んだのとは、反対側のポケットだった。
「……ルシアのやつ」
それだけ言って、立ち上がった。竜の鼻先を手のひらで一度だけなでる。
「また来るで。ヴァルナ」
改、とは言わなかった。
*
山を下りる途中、森の入口まで来たところで、ヨルムさんが足を止めた。
道の先に、人影が1つ。
茶色い髪の青年だった。腰に剣を下げている。背中にはずいぶん使い込んだ帳面をくくりつけていた。
青年はこちらを見ていた。正確には俺の背中の、小さな羽を見ていた。
それから、ゆっくりと、首を23度傾げた。
勇者レオンだった。
下界出張、13日目。
魔王の父と勇者が、森の入口で出会った。




