第35話 凧揚げの丘
下界出張、12日目。
期限、未定。
夜明け前、ベルン村の裏手の丘に着いた。
村の中には入らない。掲示板には、まだ俺の似顔絵が貼ってある。似顔絵の羽は実物よりさらに小さく描かれていた。リーナの帳面では、たぶん羽が縮んでいる。
「……こそこそしてますね、俺たち」
「懸賞金がかかっとるんやから、しゃあないやろ」
丘のてっぺんに人影が1つあった。
白い髭の、日に焼けた老人。丘の上に座って、手元の糸を操っている。糸の先の、まだ薄暗い空に菱形の大きな凧が揚がっていた。
ガントさんだった。
水鏡で見たときと、同じ場所に座っている。たぶん、60年、同じ場所に座っている。
*
「おはようございます」
声をかけると、ガントさんは凧から目を離さずに答えた。
「おはようさん。早いの」
それから、ちらりとこちらを見た。俺の背中の羽で目が止まる。
「……おお。図鑑の」
逃げる準備をした。
ガントさんは逃げなかった。凧の糸を少しだけ緩めただけだった。
「魔王の父、じゃったか」
「……違います」
「わしは、凧揚げの父じゃ」
ガントさんは凧を見上げたまま言った。
「82年も生きとるとな、羽の小さい男くらいじゃ驚かん。竜の仔がミミズじゃった騒ぎも、この丘から見とった」
カッコカリの騒ぎのことだった。この人は全部見てきたらしい。
ヨルムさんが丘に腰を下ろして雲のパイプをくわえた。ガントさんが今度はヨルムさんを見る。大きな翼。雲を吐くパイプ。
「……天使様も、ご一緒か」
「拝まんでええで。膝が痛いやろ」
「助かる。82じゃからの」
ガントさんは拝まなかった。下界に降りて12日目。逃げも、拝みも、串を構えも、取材も、保育所に預けもしなかった人は、この人が初めてだった。
*
東の空が白み始める。
「そろそろじゃ」
ガントさんが川下の方を顎で指した。
「朝の風が、来る」
言われてすぐに頬に風を感じた。川下の海の方から、川をさかのぼってくる風。ひんやりとして、少しだけ潮の匂いがする。
ガントさんの凧がぐんと高く昇る。
そして、川の上の空がきらきらと光り始めた。
細い糸だった。何百本、何千本の糸が、朝日を受けて光りながら、風に乗って川をさかのぼってくる。糸の先にはごま粒ほどの小さなクモ。
ソラヌイだった。
「……来ましたね」
「毎朝じゃ。わしが名前をつけた」
「空を縫うように見えるから、ですよね」
「よう知っとるの」
ガントさんは少しだけ嬉しそうに髭をなでた。
俺は空を見上げていた。水鏡の中では光の点にしか見えなかった。下から見ると、空一面に銀色の刺繍が走っていくみたいだった。
きれいだ、と思った。自分で設計したものを、きれいだと思ったのは、初めてかもしれない。
そのときだった。
1本の糸がふわりと降りてきた。
俺の顔に、かかった。
*
くすぐったい。
鼻の頭。頬。まぶた。細い糸が顔中にまとわりつく。払おうとして、右手を振る。糸が左の頬に移る。左手を振る。糸が首筋に回る。
気がつくと、俺は丘の上で両手を振り回しながら、くるくる回っていた。
「……新人」
「分かってます!」
「踊っとるで」
「分かってます!」
顔に糸がかかった人間は、1人で踊らされる。
俺が仕様書に書いた、ソラヌイの脅威だった。第88条のための1行。王都で大流行して、「女神様の糸払い」という名前までついた踊り。
その踊りを、設計者本人が夜明けの丘で踊っている。
ガントさんが凧の糸を持ったまま笑い出す。
「ええ踊りじゃ! 王都の舞踏教室より、筋がええ!」
「褒めないでください!」
ヨルムさんは笑いすぎて雲のパイプを落としていた。
そこへ、2本目の糸が降りてきた。
ヨルムさんの顔に、かかった。
「……あ」
ヨルムさんが、立ち上がった。右手で払う。左手で払う。背中の大きな翼が、ばさりと広がった。
天使様も、踊り出した。
大きな翼を広げて、丘の上でくるくる回る天使様。その隣で小さな羽をぱたぱたさせながら回る、羽の足りない男。
ガントさんがとうとう凧の糸を離しかけた。
「……こりゃ、たまげた。天使様の糸払いは、初めて見た」
ちょうどそのとき、丘のふもとの道を早起きの農夫が通りかかった。
農夫は丘の上を見上げて、立ち止まった。天使様と、魔王の父が並んで踊っている。
農夫はしばらく眺めてから、そっと手を合わせた。それから、自分も少しだけ踊ってから、畑へ向かった。
たぶん、何かのありがたい儀式だと思われた。
3日後、ベルン村の神殿の掲示板に、新しい札が貼られることになる。
『朝の糸払い 天使様式』
踊り方の図まで描いてあった。翼を広げて、くるくる回る図。その横に小さな羽の男が、少しだけ下手に回っている図。
下界では、俺の踊りまで盛られるらしかった。
*
糸がようやく取れたころには、日がすっかり昇っていた。
俺とヨルムさんは丘の上に並んで座り込んでいる。2人とも息が切れていた。
「……1人で踊らされるって、こういうことだったんですね」
「2人で踊っとったけどな」
「仕様書には、1人でって書きました」
「仕様どおりやないな」
ヨルムさんは落としたパイプを拾って、草を払った。
「設計ミスや」
「……だいたい、俺の設計ミスです」
ガントさんが、凧の糸を巻き取りながら、面白そうにこちらを見ていた。
「あんたら、あの虫のことを、よう知っとるな」
「……少しだけ」
「作った人の顔をしとる」
俺は何も答えられなかった。ガントさんはそれ以上は聞かなかった。82年生きると、聞かない方がいいことも分かるらしい。
*
ガントさんは俺たちに朝飯を分けてくれた。ふかした芋と、塩だけの握り飯。代わりに重箱の3段目を開けた。竜のおにぎりが並んでいる。
「……竜か」
「尻尾から食べるのが、決まりです」
「誰の決まりじゃ」
「天界の食堂の、です」
ガントさんは言われたとおり尻尾からかじった。しばらく黙って噛んでいた。
「……天界の飯は、味が薄いの」
「こっちの雲も、しょっぱかったです」
「雲を食うたんか」
「吸ったのは、こっちの天使様です」
ガントさんは首をひねった。首を傾げたのではなく、ひねった。下界の人はやっぱり23度にはこだわらない。
ヨルムさんはガントさんの塩の握り飯を、黙って2個食べていた。
*
食べながら、ガントさんが天気の話をした。
「神殿にな、ときどき天界から天気の知らせが届くんじゃ。明日は西の風、とかな」
「……第二課の予報ですね」
「だいに……? まあ、ええ。あれは、よう外れる」
ガントさんは芋をかじった。
「わしの勘の方が、10回に9回は当たる。天界の方は、10回に3回じゃ」
「3回……」
「3回当たるだけ、ましじゃがの」
ヨルムさんが額を押さえた。
「第二課に、この人の話を聞かせたいわ。予報部会に呼んだら、来てくれるやろか」
「天界まで、何段あるんじゃ」
「1万段。最後の1段は、ない」
「82じゃからの。遠慮しとく」
天界の天気予報はしばらく当たりそうになかった。
*
昼前、ガントさんが凧を貸してくれた。
「揚げてみい」
「俺、凧揚げは子供のころ以来で」
「羽が小さくても、凧は揚がる」
ガントさんに教わりながら、糸を持って丘を駆け下りた。風をつかまえて、糸を引く。凧がぐらりと揺れて、それから、ふわりと浮いた。
昇っていく。
ぐんぐん昇っていく。
俺の羽では1cmも浮かない空へ、凧は昇っていった。
「……高いですね」
「風に聞いたからじゃ」
ガントさんが隣で空を見上げている。
「わしの凧の方が、あんたの羽より、よう飛ぶの」
「予算の都合で」
「よさん?」
「……何でもないです」
糸を持つ手に風の力が伝わってくる。凧が空を引っ張って、空が凧を引っ張っている。
天界にいたころ、俺は「飛ばない空の魔物」を考えていた。羽がなくても風に乗れば空にいられる。ソラヌイはそうやって生まれた。
飛べない俺も糸1本で、少しだけ空に触れていた。
*
昼過ぎ、ガントさんが山を顎で指した。
「見てみい。雲じゃ」
遠くの山の頂に灰色の雲がかかっていた。竜の雲だ。その雲の中に朝のソラヌイの糸が吸い込まれていく。
しばらくして、山の方から、細い雨が降り始めた。
雨は風に乗って、丘の上にも少しだけ届いた。顔に当たる、細い、柔らかい雨。
その向こうに虹がかかった。
「……ソラヌイの名前な」
ガントさんが、虹を見ながら言った。
「最初は、別の名前も考えたんじゃ。雨引き、とか、空の縫い子、とかな。じゃが、ソラヌイが一番しっくりきた」
「……作った人も、同じ名前をつけてました」
言ってから、しまったと思った。ガントさんは驚かなかった。「ほう」とだけ言って、髭をなでる。
「名前はな、見た者がつけるもんじゃ。作った者と、見た者が、同じ名前をつけたなら」
ガントさんは凧の糸を巻き取った。
「それは、ええ名前じゃ」
隣でヨルムさんが小さく雲を吐いた。
「前に、うちも同じこと言うたわ。ええ名前は、下界からも同じに見える、って」
「天使様と、意見が合うたか」
「82年と100年や。そら合うわ」
2人は並んで虹を見ている。
*
夕方、丘を下りる前にガントさんが山のてっぺんを指さした。
「あの竜に、会いに行くんか」
「……なんで分かるんですか」
「天使様が、ずっと山ばかり見とるからの」
ヨルムさんは答えなかった。ただ、山の方を見ていた。朝からずっと、見ていた。
「竜は、あの山の一番上の、雲の中で寝とる」
ガントさんは、凧をたたみながら続けた。
「ひとつだけ、言うとく。朝は起こさん方がええ」
「……機嫌が悪いんですか」
「いや。起こすと、『あと5分』と言う」
ガントさんがにやりと笑う。
「5分待っても、起きん。わしは、1回、夕方まで待った」
82年生きた人でも竜の二度寝には勝てなかったらしい。
丘を下りかけたところで、天界の鳩が風に流されてきた。朝の風に乗って、ずいぶん遠回りしてきたらしい。
筒の中には、紙が2枚入っていた。
『出張報告書、受理しました。ただし所感の欄の字が読めません。再提出をお願いします。なお、下界で字が流行しているとの所感については、前例がないため判断を保留します。 ミカ』
2枚目は丸い字だった。
『糸払いの踊り、見たー! ヨルムちゃんまで踊ってた! かわいい! もっと!』
「……女神様、水鏡で見てたんですね」
「よりによって、今朝のを」
ヨルムさんは紙を丁寧に丸めて、ポケットに押し込んだ。耳の先が少しだけ赤かった。
下界出張、12日目。
明日は、ヨルムさんの竜の山に登る。




