第31話 出張は徒歩で
下界出張、0日目。
期限、未定。
朝一番にミカさんが出張申請書を持ってきた。
「旅費の欄を、確認してください」
申請書の一番下に細い字でこう書いてある。
出張旅費:0単位
根拠:第77条(出張の移動は飛行を原則とし、旅費は飛行にかかる魔素とする)
「……飛べない人は」
「移動に魔素がかかりません。なので、0単位です」
「歩くのはタダってことですか」
「規程上は、そうなります」
ミカさんは眼鏡を押し上げた。
「歩いた分の靴の減りは、自己負担です」
前世の会社の出張規程も、似たようなものだった。新幹線代は出る。駅まで走った分の汗は出ない。
申請書の決裁欄には、5つの印が並んでいた。1つ目がミカさん。2つ目が課長。3つ目から5つ目は、ルシアさんが第一課からわざわざ押しに来た。
「合同案件は終わったのに、押してくれるんですか」
「押したかったのよ。1000個の借りは60単位で返したはずなのに、まだ少し残ってる気がするの」
ルシアさんは、両腕で大きな包みを抱えている。机に置くと、どすん、と音がした。
重箱だった。
12段あった。
「……食堂からよ」
「食堂な」
「食堂です」
ヨルムさんと俺が、同時に言う。この会話も、もう何回目か分からない。
「下界の食べ物が口に合わなかったら、困るでしょう。12段目は、非常食。1年はもつわ」
「1年も出張するんですか」
「期限は、女神様がワクワクするまでよ。1年で済めば、早い方だわ」
ルシアさんは本気の顔をしていた。
*
下界へ行く方法は、1つしかない。
雲吸い所の奥に錆びた鉄の扉がある。第七課に来てしばらくたつのに、開けたことは一度もない。扉には、古い札がかかっていた。
『非常階段(下界行き) 全1万段』
「……1万段」
「1万段や」
どこかで聞いた数字だった。
「第一課の階段部会、魔王城に1万段の階段を作ろうとしてましたよね」
「あれの元ネタは、これや」
ヨルムさんが扉の横の銘板を指さした。
設計:第一課・階段部会(初代)
「前例、あったんですね」
「前例しか、ない部会や」
階段部会の2人が青ざめていた理由が、今になって分かった。自分たちの先輩が作った階段を、魔王城で再現したかったのだ。
ヨルムさんは、背中に大きな背負い袋をかついでいる。中身は、雲のパイプの替えの葉と、赤ペンと、段ボールの似顔絵。
「ヨルムさんも、本当に来るんですか」
「新人の監督責任や」
「本当は」
「下界の雲、吸うてみたいねん」
ヨルムさんは、下界に降りたことが一度もないらしい。100年、上から見ていただけだった。
前世の会社でも商品企画部で店頭に行ったことのある人はほとんどいなかった。売り場を一番知らないのが、売り物を考える部署だった。
課長が窓際から小さく手を振っている。
「気をつけてね。帰ってきたら、話すよ」
「空欄の話ですか」
「うん。順番にね」
課長の膝の上の舟の模型が、今日は少しだけ下を向いていた。
*
扉を開けると、螺旋の階段が雲の中へ続いていた。
底は見えない。手すりはある。ただ、ところどころ手すりの代わりに注意書きがついていた。
『ここから先、手すりの予算切れ』
階段部会の初代も予算には勝てなかったらしい。
降り始めて100段目に、小さな札があった。
『あと少し』
200段目にも、同じ札。
『あと少し』
500段目にも。1000段目にも。
「……ずっと『あと少し』ですね」
「階段部会の伝統や。心が折れんように、全部『あと少し』にしてある」
「逆に折れますよ」
前世の会社にもあった。「来月には人が増える」。3年間、毎月そう言われた。
5000段目の札だけは、少しだけ違っていた。
『半分。たぶん』
初代の階段部会も、正確には数えていなかったらしい。
*
6000段目あたりで、ヨルムさんが足を止めた。
「新人。時計、見てみ」
俺は懐中時計を取り出した。天界の支給品だ。
秒針が少しだけ速くなっている。
「下界に近づくほど、時間が速うなる。この辺はもう、天界の3倍くらいや」
「降りるほど、時間が速く……」
「せやから、腹の減り方も速うなる」
言われた途端に腹が鳴った。
2人で階段に腰かけて、重箱の1段目を開けた。竜のおにぎりが並んでいた。尻尾の方から食べた。ヨルムさんの真似だ。
「……下界に着いたら、何から見ますか」
「決めてへん」
ヨルムさんは階段の下の雲を見ていた。
「100年、上から見とった。水鏡で。けど、上から見えるのは、屋根と木のてっぺんだけや。下から見上げる空がどんな色か、うちは知らん」
「ヴァルナが雨を降らせた森も、ですか」
「上からしか、見たことない」
ヨルムさんはおにぎりの頭を食べ終えて、手を払った。
「行くで。あと4000段」
「あと少し、ですね」
「言うな」
8000段目の札は、少しだけ長かった。
『ここまで来たら、引き返す方が遠い』
正論だった。正論は、足には効かない。
*
9999段目で階段が終わった。
正確には、1万段目がなかった。最後の1段は、予算が切れていた。
1段分、飛び降りた。
足の裏が土に触れる。天界の雲とは違う、固くて、少しだけ湿った感触。
そこは、石造りの小さな部屋だった。棚が並び、埃をかぶった木箱が積まれている。木箱の側面には、見覚えのある判が押してあった。
『神殿経由・祈りの写し』
「……神殿の倉庫ですね」
「祈りは、ここから天界に上がっとるんやな」
祈りの段ボールの出発地点に、俺たちは着いていた。ゴブリンの苦情が箱で届いたあの日から、何百箱もの祈りが、この倉庫から上がってきていたのだ。
倉庫の扉を開けると、朝日が差し込んだ。
目が慣れるまで少しかかる。
見上げると、空があった。
青い空。白い雲。遠くの山の上に灰色の雲が少しだけかかっている。竜の雲だろうか。
ヨルムさんは、黙って空を見上げている。
長いこと、見上げていた。
「……下から見ると、こんな色なんやな」
声が少しだけかすれている。
*
神殿の前は、小さな広場になっている。
ベルン村の広場だ。水鏡で何度も見た場所だった。井戸があり、串焼きの屋台があり、朝市の準備をする人たちがいる。
最初に俺たちに気づいたのは、パンを抱えた女の人だった。
女の人はヨルムさんを見て立ち止まった。背の高い、灰色の髪の女。背中には大きな白い翼。
「……天使様」
女の人はパンを抱えたまま膝をついた。
周りの村人も次々に振り返る。ヨルムさんを見て、息をのむ。膝をつく。手を合わせる。朝市の広場があっという間に祈りの場になった。
「天使様が、降りてこられた……」
「神殿から、天使様が……」
ヨルムさんは困った顔で雲のパイプをくわえた。パイプから、ちぎれた雲が立ちのぼる。
「雲を、吐いておられる……!」
「なんと神々しい……!」
ますます拝まれた。
それから、村人たちの目がヨルムさんの隣に移った。
俺だった。
作業着に重箱を抱えた男。背中には手のひらサイズの羽。
広場が、静まり返る。
子供が1人、俺を指さした。
「……あれ、なに?」
母親が子供の口を慌てて押さえた。
村人たちが一歩ずつ後ずさった。膝をついていた人も立ち上がって後ずさった。
「羽が、小さい……」
「天使様のお連れに、あんな羽の……」
「……魔物じゃないか?」
誰かが言った。
広場の空気が変わった。
「魔物だ!」
「天使様が、魔物を連れてこられた!」
「いや、天使様についてきた魔物だ!」
村人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。串焼きの屋台の親父だけが、逃げずに串を構えていた。串焼き用の、細い串だった。
「……俺、魔物扱いですか」
「羽が、ちっこいからな」
ヨルムさんは笑いをこらえていた。こらえきれていなかった。
「天界では、全員が最初に俺の羽の感想を言いました。下界では、全員が最初に逃げるんですね」
「感想より、早いな」
*
屋台の親父は串を構えたまま、じりじりと近づいてきた。
「……魔物、なのか?」
「違います」
「羽が小さいぞ」
「予算の都合です」
「よさん……?」
親父は首をひねった。首を傾げたのではない。ひねったのだ。下界の人間は23度にはこだわらないらしい。
ヨルムさんが間に入った。
「こいつは、うちの連れや。噛まへん。字は汚いけど」
「天使様が、そうおっしゃるなら……」
親父はようやく串を下ろした。それから、俺の抱えた重箱に目を留める。
「……それは、何だ」
「弁当です」
「12段もか」
「非常食込みで」
親父はしばらく重箱を眺めていた。それから、小さく唸った。
「魔物の弁当箱にしては、立派だな」
褒められたのか、どうなのか、判断に迷った。
*
昼までにベルン村の全員が俺たちのことを知っていた。
天使様が降りてきた。羽の小さい何かを連れて。
神殿の神官が恐る恐る俺たちを訪ねてきた。天使様にはぜひ神殿に泊まっていただきたい、とのことだった。ヨルムさんには、神殿の一番いい部屋が用意された。
俺には、神殿の裏の物置が用意された。
「……物置ですか」
「お連れの方の分は、その、まだ前例が……」
神官が申し訳なさそうに頭を下げる。下界にも前例はあった。前例がない、という前例が。
物置には、祈りの段ボールの空き箱が積んであった。
俺は段ボールを1枚広げて、床に敷いた。天界に来た日と、同じだった。第七課の机も椅子も最初は段ボールだった。
段ボールの上で、重箱の2段目を開ける。
夕方、物置の小さな窓から、ヨルムさんが顔を出した。
「新人。生きとるか」
「段ボールがあるので、生きてます」
「強いな、あんた」
ヨルムさんは窓枠に肘をついて、雲を吐いた。下界の夕焼けに天界の雲が混ざって消えていく。
「で、明日からどうする」
「とりあえず、お金がありません」
「うちもや。天使様は、お布施をもらうと罰が当たるらしい」
「誰が決めたんですか、それ」
「神官が、今決めとった」
下界の前例も作られる瞬間はわりと雑だった。
「ほな、働くしかないな」
「働くって、どこで」
ヨルムさんは窓の外を指さした。広場の真ん中で串焼きの屋台が、夕方の煙を上げていた。
屋台の看板には、『名物 アカマダラ串焼き』とある。その下に小さな字で書き足してあった。
『(アカマダラ風。中身は鶏)』
アカマダラは、この村の森からはとっくにいなくなっている。今は北の魔王城で、四天王として保護されているはずだ。それでも屋台は、名前だけで商売を続けていた。
俺の設計した魔物は、森からいなくなってからも、名前だけが香ばしく焼かれていた。
下界出張、1日目。
期限は、まだ未定のまま。




