第19話 コンペ当日
第一課とのコンペ、当日。
夜明け前、ベルン村の上空に雲が1つ浮かんでいた。
ただの雲ではない。上に椅子が並び、手すりがつき、真ん中には金の縁取りの玉座まで据えてある。第二課が一晩で作った、観覧用の雲だった。
「……この雲、いくらかかってるんですか」
ミカさんが雲の端にかかった札を読んで、その場にしゃがみ込んだ。
「観覧雲1基、魔素120単位。費用は、第一課と第七課で折半」
「折半」
「60単位です。第七課の予算は、0単位です」
コンペが始まる前に第七課は破産しかけていた。
そこへ、ルシアさんが歩いてきた。昨夜まっすぐになっていた髪は、完璧に巻き直されていた。
「観覧雲の費用は、第一課が全額持つわ」
「……いいんですか」
「昨夜の印鑑1000個の分よ。これで貸し借りなし」
ルシアさんはそれだけ言って、第一課の席の方へ歩いていった。1000個の印鑑が60単位になった。
前世の俺は試食会の資料に1日300個、承認印をもらって回っていた。4年間でざっと30万個。それが1個も金にならなかったどころか、残業代すら「承認印の待ち時間は業務に含まない」という謎の理屈で削られていた。
1000個で60単位。つまり、1個あたり0.06単位。30万個なら、1万8千単位である。
第七課の年間予算の、3600年分だった。
……いや、比べてどうする。死んでまで前世の未払い残業を計算して、何になる。そもそも前世の会社に請求する方法がない。天界から、どこに請求書を送ればいいのか。
ミカさんに聞けば、たぶん規程の条文を教えてくれる。聞かないことにした。聞いたら、きっと手数料がかかる。
*
観覧雲の席は左右に分かれていた。
右側が第一課。30人の設計士がそろいのスーツで並んでいる。全員の首元には、整体部会が配った首用の添え木がついていた。
左側が第七課。4人だった。
課長は礼服を着ていた。どこから出してきたのか、100年は前の型の礼服だった。膝の上には舟の模型を抱えていた。
「課長、模型も持ってきたんですか」
「お守りだよ」
ミカさんはそろばんと規程の本を抱えていた。ヨルムさんは絹を巻いた雲のパイプをくわえていた。俺は、くしゃみが出ないように、鼻の下を指で押さえていた。
そして、日の出の直前。
観覧雲の真ん中が光った。
光の中から、女神様が現れた。肩にはグラナ村の絹のショール。手にはなぜか糸払い用の手袋をはめていた。
「おはよー! みんな来てるー?」
第一課の30人が、一斉に立ち上がって首を23度傾げた。添え木のおかげで全員ちゃんと戻ってきた。整体部会の3日間は無駄ではなかった。
第七課の4人は少し遅れて頭を下げた。課長は、立ち上がった拍子に気絶しかけて、ミカさんに支えられた。
「じゃあ、始めよっか。先攻、第一課!」
*
山の向こうの空が白み始めた。
そのとき、雲が割れた。
ゴゴゴ。
ドドド。
2種類の効果音が同時に鳴り響いた。割れた雲の間から、巨大な影が現れた。
蒼天竜ヴァルナ・改だった。
全長45m。朝焼けを受けて、8万枚の鱗が真珠色に光っている。翼を広げると、ベルン村の空の半分が影になった。
観覧雲の上で女神様が身を乗り出した。
「おおー!」
第一課の席から、拍手が起こった。ルシアさんは胸の前で両手を握りしめていた。
ヨルムさんは黙って竜を見ていた。雲のパイプの火が消えていた。
竜は観覧雲の前でゆっくりと旋回した。そして、女神様に向かって、首を23度傾げた。
傾げて、戻ってきた。
第一課の30人が小さくガッツポーズをした。
竜は大きく息を吸い込んだ。そして、山の方に向かって、口を開けた。
白い雲が竜の口からあふれ出した。雲はみるみる広がって、山の頂を覆った。山の上に灰色の雨雲が育っていく。
「すごい……」
俺は思わず呟いていた。
竜が雲を吐き終えて、口を閉じる直前。
低い、腹に響く声がベルン村の空に響き渡った。
「……あと、5分……」
観覧雲の上が静まり返った。
「……今日、火曜日ですね」
「火曜日やな」
ヨルムさんが額を押さえた。
「寝言が、現代語の日や」
竜は、朝が早すぎたらしい。「あと5分」と言いながら、山の上をゆっくりと1周した。第一課の30人が全員で首を傾げたまま固まっていた。今度は添え木では戻らなかった。
女神様は手を叩いて笑っていた。
「かわいいー! 竜が寝ぼけてるー!」
ワクワクの単位は分からない。ただ、女神様はたぶん、ワクワクしていた。
*
下界では、別の騒ぎが起きていた。
ベルン村の丘の上で凧揚げ名人のガントさんが、空を見上げて腰を抜かしていた。隣でリーナが帳面を落としていた。
森の小道では、茶色い髪の青年が剣の柄に手をかけて空を見上げていた。
勇者レオンだった。
竜が勇者に気づいた。旋回の途中で首を23度傾げた。勇者に向かって。
勇者も首を23度傾げた。
竜と勇者が空と地上で、同じ角度で首を傾げたまま、見つめ合っていた。
「……何してるんですか、あれ」
「勇者対策部会の機能が、作動しとる」
ヨルムさんが言った。
「首を傾げられたら、首を傾げ返してまう。人間の習性や。モフルのときと一緒や」
勇者は剣の柄から手を離さなかった。抜きもしなかった。首を傾げたまま、ずっと竜を見上げていた。竜も首を傾げたまま、ずっと勇者を見下ろしていた。
にらめっこだった。首の角度だけが決まっていた。
その間に山の上の雨雲は、ぐんぐん大きくなっていた。ただ、雨は降らなかった。雲は山の頂にとどまったまま、重たく膨らんでいくだけだった。
「……雨が、落ちてきませんね」
「雲だけやと、雨にならんことがあるんや」
ヨルムさんが小さな声で言った。
「ヴァルナのときも、そうやった。雲を吐いても、雨の粒の芯がないと、なかなか降らへん。降り出すまで、何日もかかった。その間に、下界の連中は空が暗いのに怯えて、懸賞金をかけた」
ヨルムさんの手の中で、パイプがかすかに震えていた。
「じゃあ、第七課の番だね!」
女神様が手を叩いた。
*
俺は、ミカさんが備品棚から持ってきた携帯用の水鏡を、森の小道の枝に合わせた。
勇者がソラヌイを戻した枝。12個の、白い卵の袋。
袋は1つも破れていなかった。
「……まだ、生まれてません」
観覧雲の上がざわついた。
「孵化は、今朝のはずです」
ミカさんが規程の本と仕様書を必死にめくっていた。
「下界時間で21日。計算は合っています。合っているはずです」
1分、過ぎた。
女神様が玉座の上で足をぶらぶらさせ始めた。
「まだー?」
「も、もう少しです」
「竜は、もう来たよ?」
「はい」
「寝言も言ったよ?」
「はい」
「じゃあ、待ってる間、なんかやって。場つなぎ!」
女神様が第七課の席を指さした。
「ヨルムちゃん、昔みたいに、なんかかっこいいこと言って」
「言いません」
「ミカちゃん、そろばんで何か弾いて」
「そろばんは、楽器ではありません」
断られた女神様が、つまらなそうに口をとがらせた。そのとき、課長が舟の模型を抱えたまま、すっと立ち上がった。
「では、僭越ながら。舟に生き物を積む際の、効率のよい順番について」
「課長」
「まず、キリンを積みます。首が長いので、一番奥に」
課長の講義が始まった。女神様は最初の30秒は聞いていた。キリンの次にゾウ、ゾウの次にカバ、と続くうちに、玉座の背もたれに、だんだん体が沈んでいった。
ウサギのつがいを積んだあたりで、女神様が目を閉じたまま呟いた。
「……あと、5分……」
竜と同じ寝言だった。
「女神様、寝てもうたで」
「課長の講義、竜と女神様を同時に寝かせました」
「前例が」
「ないです」
ヨルムさんが女神様の肩からずり落ちかけた絹のショールを、そっと直した。女神様はすぐに目を覚ました。
「……はっ。寝てない。寝てないよ?」
課長の講義が終わっても、卵の袋はしんとしていた。
俺の背中を冷たい汗が流れた。前世の試食会の朝もこうだった。試作品が工場から届かず、社長が「まだー?」と言い、俺は「もう少しです」と言い続けた。あのときは、結局届かなかった。
隣でミカさんが小さく声を上げた。
「……孵化の条件、『朝』です」
「朝ですよね、今」
「仕様書の定義では、『朝』とは『日の光が当たったとき』です。流用元のシラタマの仕様書にそう書いてありました。あの枝は、森の中です」
森の小道の枝には、まだ日が差していなかった。山の向こうから昇る朝日は、竜の広げた翼に遮られていた。
全長45m、翼を広げて60m。ヴァルナ・改の翼の影が、ちょうど、森の小道の上に落ちていた。
「……竜が、日陰を作ってます」
「竜が、うちの魔物の朝を止めとるんか」
ヨルムさんが、立ち上がった。
竜は勇者とにらめっこを続けていた。首を23度傾げたまま、1ミリも動かなかった。
*
そのとき、鼻の奥がむずむずした。
まずい、と思った。本番で女神様の前でくしゃみをするなと、ヨルムさんに言われていた。俺は鼻の下を指で押さえた。押さえた。押さえきれなかった。
「……っくしゅん!」
盛大なくしゃみが出た。口から出た小雨が観覧雲の上を飛んでいった。
飛んでいった先に竜の鼻先があった。
竜の鼻の穴に俺の小雨が、ぱらぱらと入った。
竜が首を傾げたまま、目を細めた。鼻の穴がひくひくと動いた。
そして。
「……ブェックシュン!」
全長45mの竜がくしゃみをした。
第一課の席でルシアさんが立ち上がった。
「仕様どおりよ! くしゃみ、あり! かっこよく!」
たしかに仕様書の612ページには、そう書いてあった。印鑑を押したのは俺だった。かっこよかったかどうかは、判断が分かれるところだった。
その勢いで首が23度から、0度に戻った。翼がばさりと大きく羽ばたいた。竜の体が森の小道の上から、ぐいっと横にずれた。
翼の影が森からどいた。
朝日がまっすぐに森へ差し込んだ。勇者の立っている小道を、枝を12個の白い袋を、金色の光が照らした。
袋が1つ、ぷつりと破れた。
2つ目。3つ目。12個全部。
袋の中から、ごま粒ほどの子グモが、あふれるように出てきた。子グモたちは我先に枝の先端によじ登り、お尻を空に向けた。
そして、一斉に糸を出した。
1200本の糸が朝日を受けて光った。
ちょうどそのとき、川下の海の方から、朝の風が吹いてきた。ガントさんが教えてくれた、毎朝必ず吹く風だった。1200本の糸は風に乗って、森の上に浮かび上がった。きらきらと光りながら、川をさかのぼって、山の方へ流れていく。
山の上には、竜が吐いた雨雲が重たく膨らんで待っていた。
観覧雲の上で女神様が玉座から立ち上がった。糸払いの手袋をはめた両手を、胸の前で握りしめていた。
「……わあ」
それが、女神様の口から出た、最初の言葉だった。
第一課とのコンペ、当日。
光る糸の群れが竜の雲に届くまで、あと少しだった。




