第18話 さらに前倒し
第一課とのコンペまで、あと3日。
朝、窓から鳩が飛び込んできた。首の筒には、太陽の模様の封がしてあった。
課長が筒を見ただけで椅子ごと後ろに傾いた。ミカさんが椅子の背を押さえた。この動きはもう課の全員の体に染みついていた。
俺は筒から紙を引き抜いた。
『シラタマくんへ
コンペ、あと3日って長くない?
明後日にしよ!
やっぱり明日!
いや、今日の午後!
……は、さすがに無理か。
明日の朝にしよ! 決定!』
1枚の紙の中で締め切りが3回変わっていた。「明後日」と「明日」と「今日の午後」には、それぞれ二重線が引いてあった。最後に残ったのが「明日の朝」だった。
「……書きながら、考えてますね」
「書きながら、縮めとるな」
ヨルムさんが紙を覗き込んで言った。
「3日が1日になった。女神様にしては、まだ優しい方や」
「優しいんですか」
「昔、ヴァルナの締め切りは、『さっき』やった」
過去形の締め切りを出す上司は、前世にもいなかった。
紙の一番下に追伸があった。
『追伸 本番は、下界で見たい! 朝の空の、あのきらきらしたやつ!』
課長が震える手で便箋を取り出した。
『締め切りの前倒しの、さらなる前倒しの禁止についての要望書』
「課長、それ、宛先は」
「女神様だよ」
「予算以前に、たぶん命が足りません」
ミカさんが課長の手からそっと便箋を抜き取って、引き出しにしまった。コタツの要望書と、ゴブリンの育休の要望書の、さらに上に。課長の引き出しは出せなかった要望書で、そろそろ閉まらなくなりつつあった。
「……女神様って、いつもこうなんですか」
俺が聞くと、課の全員がほぼ同時に遠い目をした。
「私が舟の仕事をしていたときは」
課長が、舟の模型をなでながら言った。
「『大雨は40日後の予定』と聞いて、準備を始めたんだ。2日目に、『やっぱり40分後で』と連絡が来た」
「40日が、40分」
「動物を、つがいで全部積み終わったのが39分目だった。備考に『舟が狭かった』と書いたのは、そういうことだよ。狭いというより、積み方を考える時間がなかったんだ」
課長の唯一の前例も、誰かの前倒しの中で生まれたものだった。
「私が経理に配属された年は」
ミカさんが眼鏡を指で押し上げた。
「予算の年度の始まりが、『なんとなく春っぽいから』という理由で、3か月早まりました。締めの帳簿を、半分の日数でつけ直しました」
「なんとなく春っぽい」
「その年の帳簿は、今でも付箋が一番多いです」
ヨルムさんが雲を吐いた。
「ヴァルナのときは『さっき』やったし、評価基準は今回『ワクワクしたら勝ち』やし。あの人の中では、時計も物差しも、その日の気分で伸び縮みするんや」
「前世の社長も、似たような人でした。会議の途中で『やっぱり来週発売で』って言う人で」
「来週なら、まだ未来やな」
「……そうですね」
前世の社長は、少なくとも過去形の締め切りは出さなかった。天界の方が、上には上がいた。
「とりあえず、返事は出さなあかん」
ヨルムさんが鳩の筒を指さした。
「何て書きます?」
「新人、書いてみ。前世で、上の人への返事は書き慣れとるやろ」
俺は段ボールの裏に下書きを書いた。
『このたびは、大変魅力的なご提案をありがとうございます。つきましては、準備期間の観点から、当初の日程でのご検討も、あわせてお願いできれば幸いです』
ヨルムさんが赤ペンで全部に線を引いた。
「女神様に、行間は通じへん」
「行間しかないんですけど」
「せやから、全部通じへん。『魅力的なご提案』のとこだけ読んで、喜んで、もっと前倒しにするで」
ミカさんが横から小さな紙を差し出した。
『承知しました。 第七課』
「これが、過去の返事の中で一番、事故が少なかった文面です」
6文字と、課の名前だけだった。俺はそれを鳩の筒に入れて、窓から放した。
鳩は10分で戻ってきた。
『ありがと!
あと、明日の朝の下界の天気、晴れにしといてね!
きらきらが見えないと、つまんないから!』
課の全員が紙を見つめた。
「……天候は、第二課の管轄です」
ミカさんが震える声で言った。
「予報を見るのは無料ですが、天気を変えるのは有料です。晴れ1日分で、魔素30単位」
「うちの予算は」
「0単位です」
返事を出したら、宿題が増えて返ってきた。女神様との文通は、1往復ごとに難易度が上がっていく仕組みらしかった。
「……ガントさんに聞きましょう」
俺は水鏡をベルン村の丘に合わせた。
丘の上で、凧揚げ名人は凧の糸を巻き取りながら、夕焼けの空を見上げていた。リーナに話している声が、かすかに聞こえた。
「夕焼けがこれだけ赤い日の次の朝は、まず晴れじゃ。60年、外れたことはない」
ミカさんがそっと息を吐いた。
「……明日の晴れ、第207条で、出典つきで確保できそうです」
「天気まで、じいさん頼みか」
ヨルムさんが笑った。
「天界の第二課より、下界の82歳の方が、よっぽど頼りになるな」
*
「明日の朝……」
俺は段ボールの壁の地図を見た。河口。川。ベルン村の丘。山。凧揚げ名人ガントさんの教えのとおりに、朝の風に乗せる計画だった。時刻はちょうど合っている。
問題は別のところにあった。
「ミカさん。本番用のソラヌイ500匹は、いつ届きますか」
ミカさんが実装担当の部署の予定表をめくった。めくる手が途中で止まった。
「……3日後です」
「3日後」
「本番用の500匹は、試験の500匹が産んだ卵から育てて、当初のコンペの日程に合わせて3日後に届く予定です。卵なので、予算はかかりません。実装担当に、前倒しの依頼を出します」
ミカさんはその場で依頼書を書いて、鳩に託した。
返事は10分で戻ってきた。
『前倒し不可。現在、第一課の竜の鱗の磨き直しで、実装担当は全員手が塞がっております。竜の鱗は全部で8万枚あります』
8万枚の鱗の後ろにごま粒500個の順番が回ってくることは、なかった。
「……本番の魔物が、いません」
課の空気が凍った。
課長が舟の模型を抱きしめた。
「前例が」
「ないです」
「……ないね」
課長も今回ばかりは言い切れなかった。
*
昼までかかって、方法を探した。
手元に残っているのは、試験で使った空の瓶だけだった。500匹は下界に放してしまった。帰ってきたのは報告書だけだった。
「試験の12匹は、まだ下界におるんか」
ヨルムさんが、水鏡を覗きながら言った。
「王都の南の畑の上を漂っていた、という報告が最後です」
「12匹やと、足りへんな」
「足りません。それに、どこにいるか分かりません」
俺は水鏡をベルン村の森に合わせた。勇者がソラヌイを枝に戻した、あの小道だった。今となっては、12匹の手がかりはそれしかなかった。
小道の脇の枝に何かがぶら下がっていた。
糸で丸く包まれた、白い小さな袋だった。1つではなかった。枝のあちこちに同じ袋がいくつもついていた。
「……ヨルムさん」
「なんや」
「あれ、卵です」
ヨルムさんが水鏡に顔を寄せた。
「勇者に枝に戻されたとき、そこで卵を産んでいったんだと思います。クモは、糸で卵を包んで、袋にするんです」
前世の庭の植え込みでも、秋になるとよく見た。糸で包まれた、白くて丸い袋。春になると、中から小さなクモが何百匹も出てくる。
ミカさんが仕様書と規程の本を並べて、すさまじい速さでめくり始めた。
「ソラヌイの繁殖は、シラタマの仕様を流用しています。産卵から孵化まで、下界の時間で21日。天界の時間で3日です」
「産卵したのは」
「試験の3日目です。そこから、天界で3日」
ミカさんのそろばんが、1回だけ鳴った。
「孵化は、明日の朝です」
課の全員が顔を見合わせた。
「卵の袋1つに、何匹入ってますか」
「仕様上は、100匹です。袋は……」
ミカさんは水鏡の枝を指で数えた。
「12袋。合計1200匹です」
本番用の500匹は届かない。代わりに勇者が枝に戻した12匹が、1200匹になって、明日の朝に生まれてくる。
「……前倒しの締め切りと、孵化の日が、ぴったり合ってます」
「女神様、知っとってやったんか」
「たぶん、知らないと思います」
「せやな。あの人は、書きながら縮めとるだけや」
*
「リリース地点を、変更します」
ミカさんが申請書を広げた。
「河口の浜辺から、ベルン村の森の、勇者が枝に戻した地点へ。森は、河口から山へ向かう風の通り道の途中にあります。朝の風に乗れば、山まで運ばれます」
「手数料は」
「第207条。下界の住民から得た知見に基づく変更なら、出典を明記すれば免除です」
ミカさんは出典欄にペンを走らせた。
『出典:勇者レオン(枝に戻した)』
「……勇者が、出典なんですか」
「リリース地点を決めたのは、勇者です。事実です」
勇者の討伐記録は日記になり、日記は天界の申請書の出典になった。勇者本人はたぶん何も知らない。
*
夕方、第七課の扉がノックもなく勢いよく開いた。
ルシアさんだった。髪が少し乱れていた。完璧に巻かれた金髪が、1房だけまっすぐになっていた。
「真壁さん」
「はい」
「印鑑を押して」
ルシアさんの後ろに印鑑部会の若手が3人、紙の束を山のように抱えて立っていた。
「女神様の前倒しで、ヴァルナ・改の決裁が間に合わないの。残り1000個。印鑑部会が総出で押しても、明日の朝までに終わらない」
「……敵の決裁を、第七課が手伝うんですか」
「敵ではないわ。対戦相手よ」
ルシアさんは少しだけ目をそらした。
「決裁が終わらなければ、ヴァルナ・改は明日の空に出られない。そうなったら、第七課の不戦勝よ。……それでいいの?」
俺はヨルムさんを見た。
ヨルムさんは雲のパイプをくわえたまま、黙っていた。それから、ふっと雲を吐いた。
「押したり」
「いいんですか」
「竜が出てこんと、勝っても気持ち悪いやろ。……それに」
ヨルムさんはルシアさんの乱れた髪を見て、少しだけ口の端を上げた。
「あの子の髪がまっすぐになっとるの、100年ぶりに見たわ」
ルシアさんの顔が真っ赤になった。
*
その夜、第七課の段ボール箱の机で、俺は印鑑を押し続けた。
ヴァルナ・改の仕様書、残り200ページ分。1ページに5つ。押しながら、つい中身を読んでしまうのは、前回と同じだった。
【仕様書(第1147ページ)】
コンペ当日の登場:雲を割って現れる(かっこよく)
登場時の効果音:「ゴゴゴ」および「ドドド」
女神様への挨拶:首を23度傾げる(整体部会の監修済み)
「……首、まだ傾げるんですね」
隣で紙をめくっていた印鑑部会の若手が、真顔で頷いた。
「整体部会が、戻る首を開発しました。3日かかりました」
第一課は首を傾げたまま戻らない問題を、ついに予算で解決していた。
ミカさんは自分の机で本番の申請書を最終確認していた。課長は段ボールのコタツ布団に足を入れて、うとうとしていた。ヨルムさんは雲吸い所から、ときどき押し終わった紙の束を覗きに来た。
「速いな」
「前世で鍛えたので」
「その速さで、字も書けたらな」
「印鑑は、字じゃないので」
午前1時を過ぎたころ、ヨルムさんが重箱を1つ抱えて戻ってきた。今日届いた分の、11段目だった。
「食べ」
「え」
「竜のおにぎりや。1個だけな」
前に1個ねだったときは、「うちが預かっとる資産や」と断られた。
「資産じゃなかったんですか」
「今日は、夜食や」
ヨルムさんは竜のおにぎりを1個、俺の段ボール箱の机に置いた。
「夜食は、経費やからな。なあ、ミカ」
ミカさんが申請書から顔を上げずに言った。
「会議費として処理します。……私にも1個ください」
ミカさんも1個もらっていた。課長はコタツ布団の中で寝言を言っていた。「前例が……」。寝言まで前例だった。
竜のおにぎりは尻尾の方から食べた。ヨルムさんの真似だった。第一課の食堂の味は、たしかに昔から変わっていない味がした。昔を知らない俺にも、なぜかそう思えた。
午前3時。最後の1個を押し終えた。
印鑑部会の若手たちが、紙の束を抱えて、第一課へ走って帰っていった。廊下の向こうでルシアさんが待っていた。ルシアさんは俺の方を見て、ほんの少しだけ頭を下げた。
それから、1房だけまっすぐになった髪を指でくるりと巻き直して、第一課のフロアへ消えていった。
*
雲吸い所に出ると、ヨルムさんがいた。夜の雲の海が月明かりで白く光っていた。
「新人」
「はい」
「明日、勝っても負けても」
ヨルムさんはそこで言葉を切った。雲を吸って、ゆっくり吐いた。
「……いや。やめとこ。こういうのは、終わってから言うもんや」
「そうですね」
「代わりに、1個だけ言うとく」
ヨルムさんはパイプの持ち手の絹を、指でなでた。
「うちは、あんたの魔物が朝の空に昇るとこ、もう1回見たい。それだけや」
俺は何も言えなかった。代わりに盛大にくしゃみをした。口から出た小雨が月明かりの中を、風に乗って流れていった。
「……まだ雨出るんか」
「まだ出ます」
「本番で、女神様の前でくしゃみすなよ」
「気をつけます」
第一課とのコンペまで、あと0日。
正確に言えば、あと数時間。明日の朝、ベルン村の森で、勇者が枝に戻した12匹の子供たちが、1200匹になって生まれてくる。




