第17話 空の図鑑
第一課とのコンペまで、あと4日。
試験リリースは終わったが、ソラヌイは下界からいなくなっていなかった。
勇者に枝へ戻された12匹は、その後も風に乗って下界のあちこちを漂っていた。そして、行く先々で人の顔にかかり、人を踊らせていた。
「王都の舞踏教室、生徒が5倍になったそうです」
ミカさんが新しく届いた祈りの束をめくりながら言った。
「3倍から、さらに増えてますね」
「なお、今朝から王都の仕立て屋で『糸払い用の手袋』が売り出されました。予約は3か月待ちです」
俺たちが作ったのは雨を降らせる魔物のはずだった。下界に生まれたのは踊りの流行と、手袋の予約待ちだった。
ヨルムさんは机で重箱を食べていた。今朝届いた分は10段になっていた。
「……増えてますね」
「増えとるな」
「食べきれるんですか」
「食べきるのが、礼儀や」
第一課の食堂はまだ名乗り出ていなかった。
*
昼前、水鏡の中に見覚えのある姿が映った。
眼鏡に革の鞄、分厚い帳面。冒険者ギルドの魔物図鑑の編纂係、リーナだった。王都の大通りで踊っている人を片っ端から呼び止めていた。
「……来ましたね」
「来たな。図鑑の季節や」
ヨルムさんが重箱を置いて水鏡の前に来た。竜の形の卵焼きを箸に挟んだままだった。
リーナの取材はいつもどおりだった。水鏡の音声を上げると、帳面にペンを走らせる音と一緒に、人々の声が聞こえてきた。
最初は大通りで帽子を振っていた紳士だった。
「顔に、何かかかったんだ。見えないのに、くすぐったい」
次は日傘を振り回していた貴婦人だった。
「見えない糸よ。空から降ってきたの。きっと女神様の贈り物だわ」
次は例の舞踏教師だった。
「女神様の糸に導かれて踊ると、心が通い合うのです。私の教室でも、踊りの後に3組が婚約しました」
話が、急に曲がった。
最後は広場の吟遊詩人だった。前にベルン村で竜の歌を作った、あの吟遊詩人である。王都に出てきていたらしい。
「なるほど。天から降る見えない糸が、2人の顔を同時に撫でたとき、その2人は結ばれる運命にある、と。素晴らしい。1曲作れます」
誰もそんなことは言っていない。
リーナの帳面を水鏡越しに覗いた。
【取材メモ】
・顔に見えない何かがかかる(紳士)
・空から降る糸、女神の贈り物(貴婦人)
・糸に導かれて踊ると心が通い合う(舞踏教師)
・糸が2人の顔を撫でると結ばれる(吟遊詩人)
→ 結論:縁結びの糸の可能性
くすぐったい、から縁結びまで4人で到達していた。前回の竜の仔より、1段早かった。
「……ヨルムさん。これ、また盛られます」
「盛られるな」
ヨルムさんは竜の卵焼きを口に入れた。
「あの吟遊詩人、うちの課の魔物のたびに1曲作っとるな。印税もらいたいわ」
*
翌朝、ギルドの図鑑が改訂された。シラタマの項目で2回改訂したばかりなのに、もう次の版だった。
【冒険者ギルド公認 魔物図鑑 第15版】
(名称不明)
二つ名:縁結びの天糸
危険度:☆☆☆☆☆
解説:空から降る見えない糸。顔にかかると、くすぐったさのあまり踊り出す。同じ糸に2人同時に顔を撫でられた者は、結ばれるという言い伝えがある(編纂係注:言い伝えは昨日できた)。
「注釈が、正直ですね」
「前の竜の仔で懲りたんやろ。図鑑にお詫びを載せるのは、1回で十分や」
正直な注釈は、あまり効果がなかったらしい。
その日の午後、王都の丘には、若い男女が大勢集まっていた。全員が空を見上げて、顔に糸が降ってくるのを待っていた。2人1組で顔を寄せ合って。
糸は1本も降ってこなかった。12匹のソラヌイは、そのとき南の畑の上を漂っていた。
丘の上では、糸を待ちくたびれた男女が、とりあえず踊り始めた。糸がなくても踊りは踊れた。夕方までに17組が婚約したらしい。
「……縁結び、成功してます」
「糸、関係ないけどな」
ミカさんがそろばんをはじいた。
「婚約17組。これは、査定に」
「入らへん」
ヨルムさんとミカさんのこのやり取りは、ここ数日で5回目だった。
その日の夕方、第七課の扉がノックされた。ノックをする訪問者は、この課では珍しかった。
立っていたのは印鑑部会の若手だった。第一課で俺に印鑑を押させた、あの天使である。
「あの、印鑑の人」
「真壁です」
「真壁さん。その……空から降る糸って、第七課の魔物ですよね」
若手は周りを見回して、声を落とした。
「1匹だけ、分けてもらえませんか。第二課に、気になる人がいて」
課の全員が若手を見た。
「……縁結びの効果は、確認されていません。図鑑の注釈にも書いてあります」
「分かってます。でも、顔に糸がかかって2人で踊ったら、話すきっかけくらいにはなるかなって」
ミカさんがそろばんをはじいた。
「ソラヌイ1匹の単価は、0.01単位です。他の課への譲渡には、第213条に基づき、譲渡申請書と、先方の課長の合議印が必要です」
「第一課の課長って」
「ルシアさんです」
若手は真っ青になって帰っていった。恋の相談を上司の合議印つきで出せる天使は、たぶんいない。
*
リーナは王都の丘には行かなかった。
代わりにベルン村へ向かっていた。噂の出どころを最初からたどり直すつもりらしかった。帳面の余白に「発生源:ベルン村の丘?」と書いてあった。
竜の仔の件で何かを学んだのかもしれない。噂の中心ではなく、噂の最初を見に行く。図鑑の編纂係としては、正しい順番だった。
ベルン村の丘でリーナは1人の老人に出会った。
白い髭の、日に焼けた老人だった。丘の上に座って、手元の糸を器用に操っている。糸の先の空には、菱形の大きな凧が揚がっていた。
「おじいさん、この丘で、空から糸が飛んでいくのを見ませんでしたか」
「見たよ。こないだの朝。きれいじゃったなあ」
老人は凧から目を離さずに答えた。
「ギルドの天気読みは西の風と言っていたのに、北へ流れていったでしょう。予報が外れたんですか」
「予報なんて見んよ。風は、空に聞くもんじゃ」
リーナが帳面を構えた。水鏡の前で俺も身を乗り出していた。
老人は凧の糸を少しだけ緩めた。
「この丘の風はな、日によって違う。違うが、1日の中では決まっとる。朝は、川下の海の方から、川をさかのぼって吹いてくる。夕方になると、今度は山の方から川下へ向かって吹き下ろす。毎日じゃ。60年、凧を揚げとるが、変わったことは1度もない」
リーナの帳面に「60年、1度も変わらない」と書かれ、二重線が引かれ、「60年、1度も変わらない(本人談)」と書き直された。
竜の仔で懲りた人の書き方だった。
「毎日、同じなんですか」
「1日のうちの、時刻が同じならな。あの朝は、放した時刻が遅かった。朝の風が終わって、昼の気まぐれな風に変わるところじゃった。それで北へ持っていかれたんじゃろう」
老人は凧を少し引いた。凧は山の方へすうっと流れていった。
「それとな。海から来た風は、山にぶつかると、上へ昇る。上へ昇った風は、冷えて雲になる。じゃから、あの山にはいつも雲がかかっとる」
老人は遠くの山を顎で指した。山の頂に白い雲がかかっていた。
「わしらの村の畑に雨が降るのは、たいていあの山の雲からじゃ」
*
俺は、水鏡の前で立ち上がっていた。
「ヨルムさん」
「聞いとった」
ヨルムさんも竜の卵焼きを箸から落としていた。
「風は、読めるんです」
俺は段ボールの壁に地図を描いた。海。河口。川。ベルン村の丘。山。その上に朝と夕方の風の向きを、赤ペンで書き込む。
「日によって違う風じゃなくて、1日の中で必ず決まってる風を使うんです。朝、川の河口で放せば、海からの風に乗って、川をさかのぼって山まで運ばれる。山にぶつかった風は、上に昇る。ソラヌイも、一緒に昇る」
「昇った先に、雲がある」
「はい。しかも、風が山にぶつかるところに、全部集まります。広い空にばらばらに散らばるんじゃなくて、山の上の1か所に、500匹が集まる」
ヨルムさんは段ボールの地図をじっと見ていた。
「数が足りへん分を、場所で補う」
「はい」
「風を読まれへん分を、下界の年寄りの60年で補う」
「……はい」
ヨルムさんはふっと笑った。
「天界は予報で、下界は経験か。うちらより、凧のじいさんの方がよっぽど空に詳しいわ」
課長が舟の模型から顔を上げた。
「舟も、同じだったよ。大雨の前にどの風が吹くか、教えてくれたのは、いつも港の漁師たちだった」
課長の前例はいつも舟の上にあった。
*
「リリース地点の変更申請を、出します」
俺が言うと、ミカさんがすかさず規程の本を開いた。
「本番のリリース地点を試験と変える場合、変更手数料が0.1単位かかります」
「……予算は」
「0単位です」
課の空気が止まった。
0.1単位。ごま粒10匹分。それが、第七課にはなかった。
「ただし」
ミカさんは付箋の森から1枚を引き抜いた。
「第207条。『変更の理由が、下界の住民から得た知見に基づく場合、その知見の出典を明記すれば、手数料を免除する』」
「……出典」
「凧のおじいさんの、お名前が必要です」
水鏡の中でリーナが老人に名前を聞いているところだった。帳面に書き込む手元を、俺たちは全員で覗き込んだ。
『ベルン村の凧揚げ名人 ガントさん(82歳)』
ミカさんが申請書の出典欄に、丁寧に書き写した。
「手数料、免除です」
82歳の凧揚げ名人が、天界の手数料を0.1単位払ってくれた。
*
その夜、リーナの帳面の最後のページに、新しい記述が加わっていた。図鑑の原稿らしかった。
【図鑑原稿(下書き)】
空から降る糸について
発生源:ベルン村の丘
縁結びの効果:確認できず(王都の婚約は、糸と無関係に成立している)
踊りの効果:確認できた
正体:まだ分からない
ただ、ガントさんによれば、糸が空を流れた年は、山の雨が多いという。雨を呼ぶ糸なのかもしれない。
私は、この糸に二つ名をつけるのをやめておく。正体が分かるまで、待つことにする。
最後の2行を読んでヨルムさんが雲を吐いた。
「……あの子、ちょっとだけ賢なったな」
「二つ名、つけないって書いてます」
「名前がつかん魔物。あんたが前に作ろうとしたやつや」
(仮)のときは名前をつけなかったせいで、他人が勝手に竜の名前をつけた。今度は、名前をつける側が自分から待ってくれていた。
第一課とのコンペまで、あと3日。
本番のリリース地点は、ベルン村を流れる川の河口の浜辺に決まった。放す時刻は朝。風の出典は凧揚げ名人ガントさん、82歳。




