第16話 試作品は風まかせ
第一課とのコンペまで、あと8日。
朝、第七課の机の上に小さなガラス瓶が届いていた。
ソラヌイである。
瓶の底にごま粒のようなものがぎっしり詰まっていた。よく見ると、1粒1粒に細い足が8本ついている。実装担当の部署から送られてきた、試験リリース用の500匹だった。
「かわいいですね」
俺が言うと、ミカさんが瓶を覗き込んだ。
「……かわいくは、ないですね」
モフルのときは3日間動かなかった人が、ソラヌイは3秒で見終えた。ソラヌイは経理の心を掴まなかった。地味な魔物としては正しい反応だった。
「では、検品をお願いします」
「検品」
「納品数が仕様書どおり500匹か、確認してください。数が合わない場合、実装担当に差し戻します」
ミカさんはピンセットと拡大鏡を俺の机に置いた。
ごま粒を500個、数える。
*
検品は夜までかかった。
ピンセットでソラヌイを1匹ずつつまみ、瓶から空き瓶に移す。移すたびに段ボール箱の端に正の字を書いていく。途中で3回くしゃみをして、2回数え直した。雲の後遺症はまだ残っていた。
正の字が99個と、4本の線になった。
「……499匹です」
ミカさんがそろばんを置いた。
「1匹、足りません」
「数え間違いかもしれません」
「差し戻しになると、試験リリースに間に合いません」
課の全員で1匹を探した。机の下。段ボール箱の隙間。雲吸い所の手すり。ヨルムさんのパイプの絹の上。どこにもいなかった。
課長が心配そうに俺の手元を覗き込んだ。
「見つからないのかい」
「見つかりません」
「前例が」
課長がそう言いかけたとき、課長の右の眉毛の中で、何かが光った。
細い糸だった。糸の先にごま粒が1つ、ぶら下がっていた。
「……課長」
「なんだい」
「眉毛に、500匹目がいます」
課長は寄り目になって自分の眉毛を見ようとした。見えなかった。当然だった。
ミカさんがピンセットで500匹目を回収して、瓶に入れた。
「500匹。検品、完了です」
「課長の眉毛から出てきた魔物を、正式な納品数に入れていいんですか」
「数は、数です」
課長はまだ寄り目のままだった。
*
試験リリースには、風の予報が必要だった。
「天候は、第二課の管轄です」
ミカさんが言った。
「予報を変えてもらうのは有料ですが、予報を見るだけなら無料です」
「見るだけで、お願いします」
第二課の予報板には、明日の下界の天気がこう書かれていた。
『ベルン村周辺 晴れ 西の風 やや強い』
「西から、東へ吹くんやな」
ヨルムさんが地図の上に指で線を引いた。
「ベルン村の丘から放したら、東の平原を越えて、その先の山の方へ行く。山には雲がかかっとることが多い。悪ない」
リリース場所はベルン村の奥の丘に決まった。ヴァルナの雨でできた森を、見下ろす丘だった。
*
リリースの朝、第七課の全員が水鏡の前に並んだ。
丘の上に500匹のソラヌイが放たれた。ごま粒たちは草の先によじ登り、お尻を空に向けた。そして、一斉に糸を出した。
朝日の中で500本の糸が光った。
細い糸が風を受けて、きらきらと空に伸びていく。糸の先でごま粒の体がふわりと浮き上がった。1匹、また1匹。丘の上から、光る糸が次々と空へ昇っていった。
水鏡の前で誰も口を開かなかった。
空一面に光る糸が流れていた。前世で見た「雪迎え」の映像と、同じだった。いや、映像よりきれいだった。
ヨルムさんが小さくつぶやいた。
「……ええな」
雲のパイプの火は消えていた。
課長は目頭を押さえていた。ミカさんでさえ、そろばんをはじく手を止めていた。
「これなら、女神様もワクワク――」
俺がそう言いかけたとき、糸の群れが急に向きを変えた。
東の山の方ではなかった。北だった。
「……北?」
「風が変わった」
ヨルムさんが水鏡に顔を近づけた。
「予報は西の風やったやろ」
「予報は、予報です」
ミカさんが第二課の予報板の隅を指さした。小さな字で注意書きがあった。
『※予報は目安です。外れても責任は負いません(第二課)』
500本の光る糸は北へ流れていった。
北には、王都があった。
*
昼過ぎ、王都の上空にソラヌイが到着した。
王都の空は雲1つない快晴だった。集める雲がどこにもなかった。行き場をなくした糸は、ゆっくりと高度を下げ、王都の街並みの上にふわふわと降り注いだ。
水鏡の中で王都の大通りを歩く人々が次々に足を止めた。
顔に何かがかかっている。見えない。取れない。くすぐったい。
人々は両手をばたばたと振り回し始めた。帽子を振る紳士。日傘を振り回す貴婦人。顔の前で手を払う兵士。大通りのあちこちで1人ずつ、ばらばらに踊っているように見えた。
「……脅威、作動してます」
「作動しとるな」
「第88条、証拠つきです」
ミカさんが祈りの束を待たずに記録をつけ始めた。
夕方には、祈りが届いた。
【祈りの写し】
差出人:王都の舞踏教師
内容:女神様。今日、王都の大通りで、人々が見たこともない踊りを踊っていました。両手を顔の前で素早く払い、首を小刻みに振る、たいへん斬新な振り付けです。
さっそく教室で取り入れたところ、生徒が3倍になりました。
新しい踊りを授けてくださり、ありがとうございます。
「……感謝されました」
「感謝されたな」
「王都で、踊りが流行りました」
ミカさんが祈りの紙を見つめていた。
「ソラヌイの効果で、下界の舞踏教室の売上が3倍。これは、査定に入りますか」
「入らへん」
ヨルムさんが即答した。
「雨は、1滴も降ってへんのや」
そのとき、窓から鳩が1羽飛び込んできた。第三課の伝書鳩だった。首の筒には金ではなく、太陽の模様の封がしてあった。
女神様の封だった。
課長が筒を見ただけで気絶しかけた。ミカさんが椅子を押さえた。俺は震える手で筒から紙を引き抜いた。
『シラタマくんへ
王都で流行ってる踊り、見た!
私もやってみた!
楽しい!
あれ、何?』
課の全員が紙を見つめた。
「……女神様、踊ったんか」
「踊ったみたいです」
「ワクワク、しとるな」
「しています」
ミカさんがそろばんを構えかけて、やめた。
「ワクワクの単位が分からないので、記録できません」
ヨルムさんは紙をしばらく眺めてから言った。
「言うとくけど、これは試験や。本番やない。本番で女神様の顔に糸かけて踊らせたら、たぶん不敬罪や」
コンペの評価基準は、女神様がワクワクしたら勝ち。ただし、踊らせたら負け。基準がまた1つ増えた。
*
2日目、風はまた変わった。
王都の上に残っていたソラヌイたちは、今度は西へ流された。西には、海があった。
海の上には、雲があった。ソラヌイの糸はちゃんと雲に絡んだ。水の粒を集め、雨の種になった。
海に雨が降った。
「降りました!」
「降ったな」
「海に」
「海にな」
水鏡の中で波の上に小さな雨粒がぱらぱらと落ちていた。海は最初から水だった。水の上に水を降らせても、誰も気づかなかった。
1匹の魚が雨粒に驚いて跳ねた。
「……喜んでくれたのは、魚1匹です」
「魚は、祈りを送ってこんからな」
ヨルムさんが雲を吐いた。
*
3日目の朝、最後に残ったソラヌイが、ベルン村の森に戻ってきた。風がぐるりと1周したらしい。
12匹だった。500匹のうち、12匹。
12本の糸が森の小道の上をふわふわと流れていった。その先に見覚えのある茶色い髪の青年が歩いていた。
課の全員が、立ち上がった。5度目だった。
勇者レオンの顔に12本の糸が、全部かかった。
勇者は立ち止まった。両手を顔の前でばたばたと振った。首を小刻みに振った。1人で森の小道で踊っていた。
「……勇者が、踊ってます」
「踊っとるな」
「王都で流行ってる振り付けと、同じです」
しばらく踊ってから、勇者は顔についた糸をそっと指でつまんだ。糸の先にごま粒のソラヌイがぶら下がっていた。
勇者はそれを剣で斬らなかった。近くの木の枝に糸ごと、そっと引っかけた。12匹全部を1匹ずつ。
それから、何事もなかったように歩いていった。
枝にかけられたソラヌイたちは、しばらくそこで揺れていた。やがて風が吹くと、また糸を出して、空へ浮き上がっていった。
ヨルムさんが勇者の討伐記録の綴りを開いた。最新の行に勇者の字でこう書いてあった。
『顔に糸 くすぐったい 踊った』
その下にもう1行。
『枝に戻した また飛んだ よかった』
「……日記ですね」
「日記やな」
勇者の討伐記録は完全に勇者の日記になっていた。
*
「試験リリースの結果を、報告します」
ミカさんが査定の用紙を読み上げた。
「リリース数、500匹。3日間の飛行距離、合計で約2000km。王都での脅威の発生、多数。舞踏教室の売上、3倍」
「そこは読まなくていいです」
「降らせた雨の量」
ミカさんは用紙を見て、少し間を置いた。
「海上で、推定0.3滴。陸上で、1滴」
「1滴」
「勇者の頬の上です。糸を払ったとき、糸についていた水の粒が1滴、落ちました」
竜は1年で国1つ分の雲を吐いた。ソラヌイは3日で勇者の頬に1滴だった。
俺は段ボール箱の机に額をつけた。
「きれいでした。最初の朝は、本当にきれいでした」
「きれいやったな」
ヨルムさんは否定しなかった。
「それで、ミカさん。試験は……」
聞くのが怖かった。1滴で不合格なら、コンペに出ることすらできない。第七課は本番の前に吸収される。
ミカさんは査定用紙の一番下の欄を指でなぞった。
「試験リリースの合否は、規程第209条で決まります。『下界で3日間、種として存続していること。第88条の脅威が、実際に確認されること』。雨の量は、試験の条件に入っていません」
「……じゃあ」
「3日目の時点で、12匹が生存。脅威は、王都全域で確認済み」
ミカさんは用紙を裏返して、判子の押された欄を見せた。
『試験リリース 合格 (備考:脅威の実績、極めて顕著)』
課の全員が同時に息を吐いた。課長は舟の模型を抱きしめたまま椅子にへたり込んだ。ヨルムさんは雲のパイプを口から離して、長く、長く雲を吐いた。
「……通った」
「通りました。コンペの出場資格も、これで確定です」
「極めて顕著、って書いてあります」
「王都で3000人が踊りましたので」
合格の決め手は雨ではなかった。人前で1人で踊らされる、という脅威だった。顔に糸がかかって困った王都の人たちに、俺は心の中で頭を下げた。そして、少しだけ感謝した。
勇者の頬の1滴と、王都の3000人の踊り。それで、第七課は本番の舞台に立てることになった。
ただ、ヨルムさんの顔はすぐに元に戻った。
「でもな、新人。風まかせは、風を読まなあかん。予報が外れたら終わり、では、女神様の前には出せへん」
「……はい」
「それと、500匹は少ない。空は、あんたが思てるより、ずっと広い」
ヨルムさんは窓の外の雲の海を見た。
「竜は、1頭で空を暗くした。ちっこいのが空で何かしよう思たら、数か、場所か、どっちかを考えなあかん」
「予算は、0単位です」
ミカさんが先回りして言った。
「数は、増やせません」
数は増やせない。風は読めない。雲のある場所には狙って行けない。
赤ペンの宿題がまた1つ増えた。
第一課とのコンペまで、あと5日。
王都では、糸を払う踊りが今日も大流行しているらしい。踊りの名前は、「女神様の糸払い」に決まったそうだ。女神様は、たぶん何もしていない。




