第15話 飛ばない空の魔物
第一課とのコンペまで、あと11日。試験リリースの申請締め切りまで、あと2日。
昨夜は第七課に泊まり込んだ。
天使は眠らなくても平気なのかと思っていたが、平気ではなかった。午前3時を過ぎたあたりで、段ボール箱の机に突っ伏して、気づいたら朝だった。頬に段ボールの波模様がくっきりついていた。
「おはようさん。顔に年輪ついとるで」
「段ボールの跡です」
「ゴブリンの祈りが顔に刻まれとるな」
ヨルムさんは俺の顔を見て、ひとしきり笑ってから、雲吸い所に出ていった。
机の上の仕様書は白紙のままだった。正確に言うと、白紙ではなかった。一番上に1行だけ書いてあった。
『行き先:』
その後ろが一晩かけても埋まらなかった。
*
朝一番に課長が大きな包みを抱えて出勤してきた。
「真壁くん、届いたよ。第一課から」
「何がですか」
「コタツだよ。貸し出しの要望書が、通ったんだ」
課長は包みを床に下ろして、嬉しそうにほどいた。
中から出てきたのは布団だった。
布団だけだった。
「……本体は」
「本体は、第一課で取り合いが続いていて、貸し出せないそうだ。布団だけ、先に」
「布団だけで、コタツですか」
「前例がない」
課長は布団を段ボール箱の机にかけた。段ボールの上に布団。下に熱源はない。ただの、布団のかかった段ボールだった。
それでも課長は足を入れて、目を細めた。
「……温かい気がする」
「気のせいです」
「気のせいでも、温かい」
課長の要望書がようやく1枚の布団になった。前例がないことを前例がないまま喜べる人は、強い。
*
「行き先の案出しをします」
俺は段ボールの壁に赤ペンで書いた。
『空の魔物 行き先の候補』
課の全員が布団のかかった段ボールの周りに集まった。課長は足を入れたまま。ミカさんはそろばんを構えたまま。ヨルムさんは雲のパイプをくわえたまま。
「思いついたら、何でも言ってください」
「女神様の、頭の上」
ミカさんが真っ先に言った。
「理由を聞いてもいいですか」
「評価基準が『女神様がワクワクしたら勝ち』である以上、女神様の視界に常に入り続けることが、最も費用対効果が高いと考えます」
「頭の上だと、視界に入らないと思います」
「……では、目の前」
「ずっと目の前に魔物がいたら、ワクワクより先に、うっとうしいと思います」
1行目に線が引かれた。
「第一課の竜の、背中の上」
今度は課長だった。
「竜が行きたい方へ飛ぶなら、背中に乗っていれば、行き先は竜が決めてくれる」
「課長、それは第一課の竜の手柄になります」
「そうか。……乗車賃は」
「規程が、ございません」
2行目に点線。
「下界の、洗濯物の上」
俺が言うと、全員がこっちを見た。
「シラタマのとき、洗濯物を取り込ませるのが脅威になりました。今度は、洗濯物に止まって、また取り込ませれば」
「新人、それはただの嫌がらせや」
3行目に太い線。
段ボールの壁はまた線だらけになった。行き先は1つも残らなかった。
「……だめですね」
「だめやな」
ヨルムさんが布団の上に頬杖をついて、ため息のように雲を吐いた。
吐かれた雲が、ふわりと漂って、ヨルムさんのパイプの持ち手に巻いてある絹に、まとわりついた。
そのとき、俺は見た。
白い絹の表面に細かい水の粒が、びっしりとついていた。雲が絹にくっついて、水滴になっていた。
「……ヨルムさん。それ」
「なんや」
「パイプの絹。濡れてます」
「いつもや。雲吸うとったら、絹が湿ってくる。そやから、たまに干しとる」
俺は、立ち上がっていた。布団がずれて、課長が小さく「あ」と言った。
*
前世の、秋の朝を思い出していた。
通勤の途中、公園の植え込みにクモの巣が張っていた。朝露がびっしりついて、きらきら光っていた。クモの糸は空気の中の水を集める。細い糸に霧や露が集まって、水の粒になる。
そして、もう1つ。
前世で見た、東北の、ある町の話だった。
晩秋の、よく晴れた日。空いっぱいに細い糸が光りながら流れていく。子グモたちが糸を出して、風に乗って旅立っていくのだ。朝日を受けた無数の糸が、空一面をきらきらと光らせる。
その町の人たちはそれを「雪迎え」と呼んでいた。
糸が空を流れた後には、雪が来る。冬の始まりを告げる、空の糸だった。
「……行き先は、決めなくていいんです」
俺は段ボールの壁の前に立った。
「風まかせで、いいんです。風がどこへ行っても、行った先の空で、糸が雲を集める。糸に集まった雲の粒が、雨の粒の種になる」
ヨルムさんの手から、パイプが下がった。
「……雨の、種」
「竜は、自分で雲を吐いて、雨を降らせました。この魔物は、雲を吐けません。でも、風に乗って空に散らばって、そこにある雲を、糸で集められます。1匹じゃ、何もできません。500匹が、風に乗って空中に散らばったら」
俺は赤ペンで仕様書の1行目の続きを書いた。
『行き先:風の吹くところ、全部。着いた空で、雲を集めて、雨の種になる』
ヨルムさんは長いこと、その1行を見ていた。
「竜の、10万分の1の大きさで」
「はい」
「竜と、同じ仕事をするんか」
「500匹で、です」
ヨルムさんは何も言わなかった。代わりにパイプの持ち手の絹を、指でそっとなでた。濡れた絹から、水の粒が1つ、ぽたりと落ちた。
*
そこからは、早かった。
「糸の器官は、シラタマの流用。第203条で、設計費ゼロ」
「はい」
「糸に水が集まりやすくなる加工。標準部品、単価0.001」
「はい」
「体は、シラタマの100分の1。1匹0.009単位、加工込みで0.01単位。500匹で、合計5単位。ちょうどです」
ミカさんのそろばんが、今までで一番速く鳴った。
「残り、0単位です」
「0」
「端数も、ありません」
ミカさんは少しだけ誇らしげだった。予算を1単位の端数も残さず使い切ることは、経理の美学らしかった。
「規程第88条の脅威は」
ヨルムさんが聞いた。
「……糸が、顔にかかります」
「顔に」
「下界の人が、外を歩いてると、空から糸がふわっと落ちてきて、顔にかかって、くすぐったいです」
「それ、脅威か」
「前世では、秋になると、皆さん結構本気で嫌がってました。顔に見えない糸がかかると、両手をばたばたさせて、1人で踊ってるみたいになります」
ミカさんが規程の本と仕様書を見比べた。
「『何らかの脅威』の範囲に、含まれると解釈できます。人前で1人で踊らされるのは、社会的な脅威です」
課長が布団の中で声を出して笑った。
「顔に糸。前例が」
「ないです」
今日は全員で言った。
*
名前の欄だけが最後に残った。
「こいつは、名前を呼んでもらう魔物か。二つ名をつけられる魔物か」
ヨルムさんが俺に聞いた。
俺が答える前に、課の全員が名前の案を出し始めた。
「(仮)2号」
ミカさんだった。
「帳簿上、前例のある名前なので、処理が早いです」
「却下です。釣り餌にされます」
「ゼンレイナシ」
課長だった。
「前例のない魔物だからね」
「課長の口癖を、魔物の名前にしないでください」
「……カッコヨク」
ヨルムさんだった。
「ヨルムさん?」
「言うてみただけや」
ヨルムさんはすぐに目をそらした。昔の自分の仕様書の口癖を、つい口に出してしまったらしい。耳が少しだけ赤かった。
ミカさんがそろばんをはじいた。
「なお、名前の変更は、決裁後は1回につき0.1単位かかります。予算は、残り0単位です」
「つまり」
「一発で決めてください」
名前をつけ直す予算は、ない。人生と同じだった。
「……空を、縫う魔物です」
風に乗って、空のあちこちに散らばって、糸で雲と雲をつなぐ。空に見えない縫い目を作っていく。
「ソラヌイ、にします」
ヨルムさんは赤ペンを持った。仕様書の余白に書き込みがあった。
『ええ名前や』
その下にもう1行。
『字は汚い。けど、今日の1行は、うちが今まで読んだ仕様書の中で、2番目にええ』
「……1番目は」
「言わんでも分かるやろ」
ヨルムさんは雲吸い所に出ていった。1番目はたぶん、1200ページ分の「かっこよく」が詰まった、あの竜の仕様書だった。
2番目で十分だった。
*
【仕様書】
名称:ソラヌイ
生息地:空(風の吹くところ)
体格:ごま粒程度。クモ型
飛行:できない
移動:お尻から糸を出し、風に乗って浮く
行き先:風の吹くところ、全部。着いた空で、雲を集めて、雨の種になる
脅威:糸が人の顔にかかり、くすぐったい。人前で1人で踊らされる
個体数:500匹
費用:魔素5単位(糸の器官は、シラタマより流用)
設計者:真壁
申請書を書き上げたのは、締め切り当日の、夕方だった。
局の経理課まで走った。第一課のフロアを駆け抜けると、ガラスの向こうの大会議室では、第176回全体会議が開かれていた。議題は「尻尾の先の、とんがり具合」だった。
印鑑部会の若手が俺に気づいて手を振った。
「あ、印鑑の人! 今日も手伝って――」
「すみません、今日は無理です!」
「じゃあ、走りながらでいいので!」
若手は、並走しながら書類の束と印鑑を差し出してきた。断る間もなかった。俺は第一課のフロアを駆け抜けながら、竜の仕様書に印鑑を押した。走りながら30個。前世の俺が見たら泣いて喜ぶ速さだった。
押し終えた書類を若手に返したとき、ページの端に「尻尾の先:とんがり(かっこよく)」と書いてあるのが見えた。会議はまだ続いているのに、結論はもう仕様書に書いてあった。第一課の会議は結論を出すためではなく、結論を確かめるために開かれているらしい。
経理課の受付に申請書を差し出した。受付の天使は封筒を受け取ると、引き出しから小さな器具を取り出した。湿度計だった。
「始末書の件で、第七課の書類は、湿度を測る決まりになりました」
「決まりに、なったんですか」
「昨日から。規程の附則です」
俺専用の附則だった。受付の天使は封筒に湿度計を当てて、3分ほど睨んでいた。
「……湿っていませんね」
「湿ってません」
「規程第204条に基づき、受理します」
受理の印が押された。
帰りの廊下でようやく息をついた。窓の外では夕焼けの空を、雲の切れ端がゆっくりと流れていた。風の吹く方へ。どこへ行くのかは雲自身も知らない。
それでいい、と思った。
第一課とのコンペまで、あと9日。
飛ばない空の魔物の仕様書は、1枚。第一課の竜の、1200分の1だった。




