第11話 女神、来る
第一課とのコンペまで、あと30日。
新年度の朝、ミカさんが眼鏡を曇らせるほど興奮して出勤してきた。
「予算が出ました」
第七課の全員が顔を上げた。
「今年度の予算は、前年度の実績に応じて配分されます。第七課は、査定基準を達成しました。その結果」
ミカさんは1枚の紙を高々と掲げた。
「前年度の、10倍です」
課長が舟の模型を取り落とした。ヨルムさんの口から、雲のパイプが落ちた。俺は段ボール箱の椅子から転げ落ちた。3つの物が同時に床に落ちた。
「10倍……!」
「はい。10倍です」
「ちなみに、前年度の実績というのは」
「前年度末の、残り予算です」
ミカさんは紙を裏返した。
「0.5単位でした」
「……10単位、残ってましたよね」
「年度末に、使い残しの95%は局に返納する規程です。残ったのが、0.5単位です」
部屋が静まり返った。
「……5単位ですね」
「5単位です」
10倍という言葉は、元の数字が小さいと何の役にも立たない。前世の会社にも「売上前年比300%」の新商品があった。前年の売上は、社員の家族が買った3個だった。
ミカさんの眼鏡は曇ったままだった。今度はたぶん涙で。
*
昼前に事件が起きた。
第七課の扉がノックもなく開いた。入ってきたのはルシアさんではなかった。
光だった。
扉の形をした光が部屋に流れ込んできた。まぶしくて目を細めると、光の中心に1人の女性が立っていた。長い金色の髪に白い衣。背中には俺の羽の50倍はありそうな翼が6枚。頭の上には天使の輪ではなく、小さな太陽のようなものが浮いている。
窓際でノア課長が立ち上がった。
「め、女神、アルマ様……」
課長はそのまま後ろに倒れた。気絶したのだった。倒れる直前にかすかな声が聞こえた。
「……前例が」
最後まで言えなかった。
女神様は倒れた課長をまたいで、部屋の中をきょろきょろと見回した。
「へえー、ここが第七課。狭っ。暗っ。段ボールすごっ」
第一声が内見に来た人だった。
「あ、ミカちゃん。久しぶりー」
「……ご無沙汰しております」
「ヨルムちゃんも。元気してた?」
「……おかげさまで」
ヨルムさんの声は、ルシアさんが来たときよりさらに1段低かった。
女神様は最後に俺を見た。上から下まで眺めて、背中の羽で目を止めた。
「ちっさ」
この天界では、全員が最初に俺の羽の感想を言う決まりでもあるのだろうか。
「あなたが、シラタマくん?」
「真壁です」
「シラタマの人でしょ? じゃあ、シラタマくんね」
女神様はにっこり笑った。反論の余地がない笑顔だった。前世の社長もこういう笑い方で人のあだ名を決めていた。そのあだ名は退職するまで変わらなかった。
*
「これ、これ」
女神様は肩にかけていた白い布を、ひらりと広げてみせた。つやつやと光る、薄い絹のショールだった。
「下界の神殿から届いたの。最近、王都で大流行りなんですって。グラナ村の、白い虫の糸」
女神様はショールに頬ずりした。
「肌ざわり最高。地味な虫なのに、こんなの作れるんだ、って思って。で、誰が作ったのか調べたら、第七課って書いてあって。第七課ってどこ? ってなって、来ちゃった」
「来ちゃった、で来る場所ではないんやけどな」
ヨルムさんが小声で言った。女神様には聞こえていなかった。あるいは、聞こえていても気にしていなかった。
「それでね、コンペの話」
女神様は課長の机に腰かけた。気絶している課長の、すぐ横だった。
「第一課と第七課で、新しい魔物のコンペをやってもらうでしょ。お題、決めてきたの」
女神様は人差し指を立てて、天井を指した。
「空」
「……空、ですか」
「最近、空が寂しいのよね。鳥はいるけど、なんか普通でしょ。昔はもっとこう、ドーンって感じの、空を暗くするくらいの大きいのが飛んでたじゃない」
ヨルムさんの肩がはっきりと強ばった。
女神様は気づいていないようだった。気づいていないのか、気づいていて言っているのか。女神様の笑顔からはどちらとも読み取れなかった。
「だから、空の魔物。空を見上げたときに、ワクワクするやつ」
*
「評価基準を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
ミカさんが震える手でペンを構えた。
「生存日数でしょうか。それとも、下界での知名度でしょうか。費用対効果でしょうか。できれば、数値で」
「私がワクワクしたら、勝ち」
ミカさんのペンが止まった。
「……ワクワクの、単位は」
「単位? ないない。ワクワクはワクワクだよ」
ミカさんがよろめいて段ボール箱に手をついた。経理にとって、単位のない評価基準は、床のない建物と同じなのだろう。
「あと、締め切りなんだけど」
女神様は指を折って数え始めた。
「あと30日って言ったっけ? 長くない?」
「……長い、ですか」
「私、待つの苦手なの。20日にしよ」
10日、消えた。
女神様の口から出た瞬間に、締め切りが3分の2になった。前世でも締め切りを前倒しする人はいた。ただ、前倒しする理由が「待つのが苦手」だった人は、さすがにいなかった。
「それとね、せっかくだから、ルールもう1個」
女神様は指をもう1本立てた。
「負けた方の課は、勝った方の課に吸収ね」
部屋の空気が止まった。
「吸収……」
「そう。第七課が負けたら、第一課に入るの。みんな、エリート部署で働けるよ。よかったね」
女神様は心から善意の顔をしていた。
「第一課が負けたら?」
「第一課が第七課に入る。この部屋に」
女神様は4つしかない机と、天井まで積まれた段ボール箱を見回して、少し考えた。
「……入らないね。まあ、そのときはそのときで」
ルール作りが面積の確認より先に行われていた。
*
女神様が帰ると、入れ違いにルシアさんが来た。いつもどおり、ノックはなかった。
「女神様から、お題は聞いたわね」
「空やろ」
「ええ。空よ」
ルシアさんは手に持っていた筒から、1枚の設計図を広げてみせた。第一課の書式だった。金の縁取りに分厚い紙。俺の仕様書が段ボールの切れ端に見えるほどの紙だった。
設計図の真ん中に翼を広げた竜が描かれていた。
見覚えのある形だった。第一課の玄関に吊るされている、あの模型と、ほとんど同じ形だった。
『第一課 コンペ案件 蒼天竜ヴァルナ・改』
ヨルムさんの顔から、表情が消えた。
「……あんた」
「先輩の竜を、下ろせと言われても下ろさなかったのは、わたくしよ」
ルシアさんは設計図の縁を指でなぞった。
「1年で狩られたのは、目立ちすぎたから。なら、目立っても狩られない竜を作ればいい。予算なら、第一課にはあるわ。先輩の竜を、今度こそ、空に残してみせる」
それから、ルシアさんは少しだけ声の調子を変えた。
「先輩。第七課が負けたら、第一課に戻ってきてください。ヴァルナ・改の、設計主任の席を空けておきます」
「……吸収される側に、席なんか要らんやろ」
「吸収ではありません。お迎えです」
ルシアさんは設計図を丸めて、扉へ向かった。扉の前で振り向かずに言った。
「予算、5単位なんですってね」
扉が閉まった。
どこから漏れたのか、と俺が言いかける前に、ミカさんが小さく手を挙げた。
「局の経理の共有台帳に、各課の予算は掲載されます。第一課は、閲覧できます」
「第一課の予算は?」
「閲覧できます」
ミカさんは台帳の写しを1枚、そっと机に置いた。
第一課の今年度予算の欄を見て、俺は3回、桁を数え直した。4回目で数えるのをやめた。
「ミカさん。5単位で、空の魔物って、何が買えますか」
ミカさんはそろばんを構えた。珠をはじく音がいつもより弱々しかった。
「空を飛ぶための翼は、1対で魔素40単位です」
「1対で」
「5単位だと、翼の片方の、先端の羽根が3枚です」
「3枚」
「くちばしなら、半分です。上か下か、選べます」
「選びたくないです」
「鳴き声なら、『ピ』が1回分」
「1回」
「2回目の『ピ』は、来年度の予算になります」
羽根3枚、くちばし半分、「ピ」1回。俺はその3つを組み合わせた生き物を想像しようとして、やめた。どう組み立てても空ではなく、地面に落ちている何かにしかならなかった。
「ちなみに、第一課の竜の鳴き声は」
ミカさんは第一課の台帳の写しを、もう一度めくった。
「低音、中音、高音の3種類。それぞれに『威嚇用』『求愛用』『寝言用』があります」
「寝言にまで予算が」
「かっこよく、だそうです」
ヨルムさんが黙って雲吸い所に出ていった。「かっこよく」の出どころが誰の仕様書なのか、課の全員が知っていた。
*
課長が目を覚ましたのは、夕方だった。
「……夢を見ていたよ。女神様が、第七課にいらっしゃる夢を」
「来ました」
「……前例が」
「ないです」
課長はもう一度、気絶しかけた。ミカさんがそっと椅子を押さえた。
俺は段ボール箱の椅子に座り直して、白紙の仕様書を1枚、机代わりの箱の上に置いた。
お題、空。予算、5単位。締め切り、20日。負けたら吸収。相手は、予算が数えきれない課の、竜の改良型。
前世でもここまで条件の悪い企画会議は経験がなかった。
「新人」
ヨルムさんがベランダの雲吸い所から声をかけてきた。
「ちょっと来」
ベランダに出ると、ヨルムさんは雲の海の向こうの第一課を見ていた。夕陽の中で竜の模型の翼が光っている。
「空の魔物、作るんやったら、まず空を知らなあかん」
「はい」
「あんた、飛んだことあるか」
「ありません。予算の都合で、見送りになってます」
「ほな、今から飛べ」
「……はい?」
「その羽、装飾用言うても、羽は羽や。空を知らん奴に、空の仕様書は書けへん。ほれ」
ヨルムさんはベランダの手すりを指さした。手すりの向こうは一面の雲の海だった。
「落ちても雲や。たぶん死なへん」
「たぶん」
「天使は、たぶん死なへん」
たぶんの数が1つ増えた。
俺は手すりの上に立った。背中の、手のひらサイズの羽に、全力で力を込めた。羽はぱたぱたと、健気に動いた。
そして、俺はまっすぐ下に落ちた。
雲は思ったより柔らかかった。思ったより冷たかった。思ったより、深かった。
上から、ヨルムさんの声が降ってきた。
「どうやー。空、分かったかー」
「分かりましたー」
雲の中から、俺は叫んだ。
「空は、飛べない奴には、ただの下です」
しばらくして、ヨルムさんの笑い声が聞こえた。第一課の設計図を見てから、初めての笑い声だった。
雲から這い上がるのに、2時間かかった。
第一課とのコンペまで、あと20日。
お題は空。俺は空を飛べない。




