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灯は、あの夜の順番を正確に覚えている。
夕食が終わっていた。
母は流し台に立ち、父は居間で新聞を読んでいた。
テレビでは天気予報をしていた。
特別なことは何もなかった。
灯が言った。
「海が見たい」
思いつきだった。
両親は顔を見合わせた。
父が時計を見た。
母は少しだけ黙った。
「今から?」
灯はうなずいた。
そこでやめることもできた。
「やっぱりいい」と言えた。
でも言わなかった。
父は新聞を畳み、立ち上がった。
車の鍵の音がした。
そこから先は、速かった。
港。
防波堤。
暗い海。
波の音。
振り向いたとき、二人はいなかった。
順番は変わらない。
自分が言った。
両親が動いた。
そして、いなくなった。
教会の長椅子に座りながら、灯はその順番を何度も頭の中でなぞる。
間違っていない。
どこにも飛躍はない。
「私が言ったけんやろ」
声に出してみる。
礼拝堂は静かだ。
少し離れた場所にいる湊が、こちらを見る。
「何が」
「海に行こうって」
灯は続ける。
「私が言わんやったら、あの夜は出かけんやった」
湊はすぐには否定しない。
灯はそれを、肯定に近いものとして受け取る。
「家におったら、死なんやったかもしれん」
可能性の話だとわかっている。
それでも、その可能性が消えない。
何年も考えてきた。
もし言わなかったら。
もし黙っていたら。
もし、あのとき空気を読んでいたら。
湊が言う。
「本気でそう思っとると」
「思っとる」
灯は即答する。
迷いはない。
迷いがないことのほうが、少しおかしいと自分でもわかっている。
湊はゆっくりと言う。
「人はな、ひとつの言葉だけで死なん」
灯は首を振る。
「きっかけにはなる」
声は強くない。
ただ、決めているだけだ。
自分の中で。
「私が言った。それは事実やろ」
湊は黙る。
否定しきれない沈黙。
灯はうなずく。
「やっぱり、私や」
その言葉は静かで、揺れていない。
揺れていないのに、どこか欠けている。
灯は気づいている。
何度同じ順番をなぞっても、答えは出ない。
それでもやめない。
やめたら、自分の中の均衡が崩れる気がする。
あの夜に意味を与えないと、立っていられない。
だから言い続ける。
「私が言ったけんや」
湊はそれ以上、何も言わなかった。




