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写真を見せてから、湊は少し距離を置くようになった。
石段には立っている。
けれど灯が近づくと、話題を変える。
「あの人」という言葉を口にしてしまったことを、悔やんでいるようだった。
灯は焦らなかった。
代わりに、教会の記録をもう一度丁寧に調べた。
倉庫の箱を一つずつ確かめる。
古い封筒、行事の案内、寄付の帳簿。
その奥に、小さな木箱があった。
中には、数通の手紙。
宛名はない。
差出人の名もない。
だが筆跡は、牧師の記録簿と同じだった。
灯は一通を開く。
『港が見える。
あなたが出ていったあの日と同じ色だ。
帰ってくると約束した言葉を、私はまだ信じている。』
喉が詰まる。
続きを読む。
『あなたが生きているなら、それでいい。
もし戻れない理由があるなら、私は責めない。
神の前で、あなたを否定することだけはできない。』
そして、はっきりと書かれていた。
『この想いが罪だと言われるなら、
私はその罪を抱えたまま生きる。』
灯は目を閉じる。
最後の一通には、こうあった。
『あなたが帰らないのなら、私はここで祈り続ける。
この町を離れない。
あなたが帰る場所を、守る。』
日付は、牧師が着任した年。
忘れていなかった。
待っていた。
生涯を、この町に置いた。
灯は箱を閉じ、石段へ向かった。
湊は、いつもの場所に立っていた。
曇り空の下、港は鈍く光っている。
灯は静かに言う。
「待っとった人は、おった」
湊の表情が固まる。
「何を見た」
「出されとらん手紙。帰るって約束、信じとった」
「やめろ」
低く、強い声。
けれど灯は続けた。
「戦没者名簿、番号が一つ抜けとった」
湊の眉が動く。
「最初から名前がなかったみたいに、きれいに空いとる」
沈黙。
灯は畳みかける。
「写真の日付と、牧師さんが着任した年が重なる。
出征前の写真に写っとった人が、帰ってこんやった。
でも、戦死者として正式に記録されとらん」
湊の視線が揺れる。
「名簿に“載っていない”んやない。
“消された形跡がある”」
「消す理由なんて、なか」
かすれた声。
灯ははっきり言う。
「関係が知られたら困る人がおったなら、あります」
教会。
戦後。
公にできない想い。
戦死者として称えることもできない。
だから、空白にした。
「でも、あの人は消しとらん」
灯は言う。
「名前が消えても、想いは消えとらん」
湊は、長い間黙っていた。
やがて、低く言う。
「……俺は、帰れんやった」
その声は、もう否定ではなかった。
灯は首を振る。
「帰る場所は、残っとった」
港に風が吹く。
教会の鐘が鳴る。
湊は、ゆっくりと石段の一段目に足を乗せた。
初めてだった。
まだ敷地の外。
それでも確かに、一歩。
湊は初めて、教会を見上げる。
そこには、消えなかった祈りがある。
灯は隣に立つ。
もう後戻りはできない。
けれどそれは、失うことではなかった。
帰る場所があるということを、
知ってしまったから。




