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瞳に映る坂の街  作者: 橘かすみ


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6/11

6

翌日、灯はもう一度教会へ向かった。


昨日見つけた戦没者名簿の空白が、どうしても気になっていたからだ。番号が一つ飛んでいる。破られた形跡はない。最初から名前がなかったような、不自然な空き方だった。


昼の教会は、思ったよりも明るい。


ステンドグラスから差し込む光が、長椅子の背や床を色づけている。赤や青の光がゆらぎながら揺れ、静かな空間にかすかな温度を与えていた。


灯は名簿をもう一度開く。


やはり空白は変わらない。


「偶然、だよね……」


小さく呟くが、自分でも納得はしていない。


ふと、隣の棚に目がいく。


古い帳簿が何冊も並んでいる。教会の記録らしい。


何気なく手に取って頁をめくる。


そこには、歴代牧師の名前が並んでいた。


戦後まもなく着任し、三十年以上この教会に仕えた牧師の欄で、灯の手が止まる。


備考欄に、短い一文があった。


『終生独身』


灯は思わず息を止める。


この町は小さい。三十年以上勤めれば、住民は皆知っているはずだ。それでも家族の記載はなく、葬儀の記録も簡素だった。


『生涯を教会と町に捧ぐ』


それだけ。


個人としての記録が、驚くほど少ない。


灯は冊子を閉じる。


偶然かもしれない。


戦争帰りの青年と、戦後に着任した独身の牧師。


直接結びつく証拠はない。


けれど、胸の奥がざわつく。


湊の言葉が思い出される。


——待っとる人がおった。


——きっと、忘れたやろ。


忘れずに生きた人がいた可能性を、湊は一度も考えていなかった。


灯は教会を出る。


石段の下に、湊が立っていた。


昨日と同じ場所。


敷地の中には入らない距離。


「また来とったと」


穏やかな声だった。


灯は迷ったが、思い切って聞いてみる。


「戦争のあと、この教会におった牧師さん、知っとりますか」


湊は首を横に振る。


「俺は、ここには入っとらん」


予想通りの答えだった。


「どうして入らないんですか」


昨日も聞いたが、今日はもう一歩踏み込む。


湊は少し考えてから答えた。


「……俺が立つ場所やなか」


曖昧だが、拒絶の響きがある。


灯は続ける。


「罰、だと思っているからですか」


湊は視線を逸らす。


否定しない。


肯定もしない。


ただ、港を見つめたまま言う。


「この街は、送り出す街やけん」


その言い方には、実感があった。


「戻らん人も多い」


灯は胸の奥が重くなる。


「でも、待っとった人がおったら?」


はっきりと言葉にする。


湊はゆっくり振り向く。


その表情は、いつもより硬い。


「おらん」


きっぱりとした否定。


けれど声はわずかに揺れていた。


「どうしてそう言い切れるんですか」


灯は問い返す。


湊は答えない。


しばらくして、低い声で言う。


「忘れられた方が、楽や」


その言葉は、本音に近いと灯は思った。


忘れられていない可能性を考える方が、苦しいのだ。


もし本当に待っていた人がいたなら。


自分は帰らなかったことになる。


それは「罰」では済まない。


灯は静かに言う。


「忘れてなかったかもしれません」


湊は目を細める。


「なんで、そう思う」


灯は正直に答える。


「記録が、少なすぎました。三十年以上いた牧師さんなのに」


そこまで言って、言葉を止める。


確証はない。


ただの推測だ。


湊はしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。


「考えすぎや」


それだけ言って、視線を外す。


けれど灯にはわかる。


完全に否定しているわけではない。


ただ、触れたくないのだ。


灯は思う。


もしあの牧師が、湊の「待っとった人」なら。


もし本当に、生涯独身のままこの町で祈り続けていたのなら。


湊は、まだ知らない。


忘れられていなかった可能性を。


灯は石段の上に立ったまま、教会を振り返る。


ステンドグラスの色が、窓越しに揺れている。


あの光の中に、何かが残っている気がした。

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