6
翌日、灯はもう一度教会へ向かった。
昨日見つけた戦没者名簿の空白が、どうしても気になっていたからだ。番号が一つ飛んでいる。破られた形跡はない。最初から名前がなかったような、不自然な空き方だった。
昼の教会は、思ったよりも明るい。
ステンドグラスから差し込む光が、長椅子の背や床を色づけている。赤や青の光がゆらぎながら揺れ、静かな空間にかすかな温度を与えていた。
灯は名簿をもう一度開く。
やはり空白は変わらない。
「偶然、だよね……」
小さく呟くが、自分でも納得はしていない。
ふと、隣の棚に目がいく。
古い帳簿が何冊も並んでいる。教会の記録らしい。
何気なく手に取って頁をめくる。
そこには、歴代牧師の名前が並んでいた。
戦後まもなく着任し、三十年以上この教会に仕えた牧師の欄で、灯の手が止まる。
備考欄に、短い一文があった。
『終生独身』
灯は思わず息を止める。
この町は小さい。三十年以上勤めれば、住民は皆知っているはずだ。それでも家族の記載はなく、葬儀の記録も簡素だった。
『生涯を教会と町に捧ぐ』
それだけ。
個人としての記録が、驚くほど少ない。
灯は冊子を閉じる。
偶然かもしれない。
戦争帰りの青年と、戦後に着任した独身の牧師。
直接結びつく証拠はない。
けれど、胸の奥がざわつく。
湊の言葉が思い出される。
——待っとる人がおった。
——きっと、忘れたやろ。
忘れずに生きた人がいた可能性を、湊は一度も考えていなかった。
灯は教会を出る。
石段の下に、湊が立っていた。
昨日と同じ場所。
敷地の中には入らない距離。
「また来とったと」
穏やかな声だった。
灯は迷ったが、思い切って聞いてみる。
「戦争のあと、この教会におった牧師さん、知っとりますか」
湊は首を横に振る。
「俺は、ここには入っとらん」
予想通りの答えだった。
「どうして入らないんですか」
昨日も聞いたが、今日はもう一歩踏み込む。
湊は少し考えてから答えた。
「……俺が立つ場所やなか」
曖昧だが、拒絶の響きがある。
灯は続ける。
「罰、だと思っているからですか」
湊は視線を逸らす。
否定しない。
肯定もしない。
ただ、港を見つめたまま言う。
「この街は、送り出す街やけん」
その言い方には、実感があった。
「戻らん人も多い」
灯は胸の奥が重くなる。
「でも、待っとった人がおったら?」
はっきりと言葉にする。
湊はゆっくり振り向く。
その表情は、いつもより硬い。
「おらん」
きっぱりとした否定。
けれど声はわずかに揺れていた。
「どうしてそう言い切れるんですか」
灯は問い返す。
湊は答えない。
しばらくして、低い声で言う。
「忘れられた方が、楽や」
その言葉は、本音に近いと灯は思った。
忘れられていない可能性を考える方が、苦しいのだ。
もし本当に待っていた人がいたなら。
自分は帰らなかったことになる。
それは「罰」では済まない。
灯は静かに言う。
「忘れてなかったかもしれません」
湊は目を細める。
「なんで、そう思う」
灯は正直に答える。
「記録が、少なすぎました。三十年以上いた牧師さんなのに」
そこまで言って、言葉を止める。
確証はない。
ただの推測だ。
湊はしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。
「考えすぎや」
それだけ言って、視線を外す。
けれど灯にはわかる。
完全に否定しているわけではない。
ただ、触れたくないのだ。
灯は思う。
もしあの牧師が、湊の「待っとった人」なら。
もし本当に、生涯独身のままこの町で祈り続けていたのなら。
湊は、まだ知らない。
忘れられていなかった可能性を。
灯は石段の上に立ったまま、教会を振り返る。
ステンドグラスの色が、窓越しに揺れている。
あの光の中に、何かが残っている気がした。




