5
翌朝、空はまだ灰色だった。
夜の雨が残っているのか、石段は少し湿っている。
灯は昨日のステンドグラスの色を思い出しながら、ゆっくりと上った。
湊は、いつもの場所に立っていた。
教会の敷地に入らない、あの位置。
「おはようございます」
「早かね」
いつも通りの声。
けれど灯の中では、何かが少し変わっていた。
「昨日、中に入りました」
あえて言う。
湊は一瞬だけ視線を寄越したが、すぐ港に戻した。
「そうか」
それだけ。
灯は続ける。
「戦没者の名簿も見ました」
沈黙。
風が吹く。
湊の横顔は変わらない。
「……昔のことや」
淡々とした声。
けれど、完全に無関心というわけでもない。
灯は少し踏み込む。
「湊さんも、あの港から出たとですよね」
しばらくして、湊は頷いた。
「行ったよ」
昨日よりも、はっきりした声だった。
「帰ってくるつもりやった」
それは疑いのない事実のように聞こえる。
「待っとる人がおったけん」
灯は息を整える。
「ご家族、ですか」
問いながら、自分でも違うとわかっている。
湊は小さく笑った。
「家族、とは言えんやろな」
その言い方に、灯の胸が静かに波立つ。
「……大事な人やった」
昨日と同じ言葉。
けれど今日は、少しだけ重い。
灯は港を見下ろす。
小さな船がゆっくり動いている。
「その人は、待っとらんかったとですか」
自分でも残酷な問いだと思う。
湊は首を横に振った。
「わからん」
間を置いて、続ける。
「きっと、忘れたやろ」
灯はすぐに否定する。
「忘れん人もおる」
昨日と同じ言葉なのに、今日ははっきりしている。
「ずっと、ひとりで待っとる人もおる」
両親のことが頭をよぎる。
忘れられないものは、消えない。
湊は静かに笑う。
けれどその笑みは、どこか自分を守るようだった。
「俺は、帰れんやった」
その言葉が、重く落ちる。
灯は気づく。
湊は“帰れなかった”と言っている。
帰らなかった、ではない。
「どうして」
自然に口をついて出る。
湊は少しだけ教会の方を見た。
すぐに視線を逸らす。
「若かったけん」
短い。
それだけでは理由にならない。
けれど、湊の中ではそれで完結しているようだった。
灯は、昨日見た赤い光を思い出す。
罪を告げる色。
「若いと、帰れんとですか」
問いかける。
湊は答えない。
代わりに、ぽつりと呟く。
「罰やと思うた」
灯の心臓が強く打つ。
「何の罰」
今度は逃げない。
湊は、わずかに笑った。
「大事にしたらいかんもんを、大事にした罰」
はっきりとは言わない。
でも、灯には伝わる。
教会に入らない理由。
名簿の空白。
消えた番号。
この人は、自分の想いを罪だと思っている。
灯は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「それは、罪やない」
気づけば、言葉が出ていた。
湊は驚いたように灯を見る。
まっすぐ、初めて長く。
その視線は、揺れている。
「……そうやろか」
弱い声。
灯は強く頷く。
「誰かを大事にすることは、罰やない」
自分にも言っている。
両親に「港に行きたい」と言ったあの日の自分にも。
しばらくの沈黙。
やがて雲の切れ間から光が差す。
朝の光。
湊の輪郭が、少しずつ淡くなる。
「帰りたいと思うただけや」
最後にそう言って、
湊は光の中に溶けるように姿を消した。
灯は立ち尽くす。
帰りたいと思うこと。
それが罪になるはずがない。
それでも湊は、そう思っている。
教会に入らない理由。
名簿の空白。
忘れられたと思い込んでいる“誰か”。
灯は確信する。
湊の物語は、まだ終わっていない。




