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瞳に映る坂の街  作者: 橘かすみ


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5/11

5

翌朝、空はまだ灰色だった。


夜の雨が残っているのか、石段は少し湿っている。


灯は昨日のステンドグラスの色を思い出しながら、ゆっくりと上った。


湊は、いつもの場所に立っていた。


教会の敷地に入らない、あの位置。


「おはようございます」


「早かね」


いつも通りの声。


けれど灯の中では、何かが少し変わっていた。


「昨日、中に入りました」


あえて言う。


湊は一瞬だけ視線を寄越したが、すぐ港に戻した。


「そうか」


それだけ。


灯は続ける。


「戦没者の名簿も見ました」


沈黙。


風が吹く。


湊の横顔は変わらない。


「……昔のことや」


淡々とした声。


けれど、完全に無関心というわけでもない。


灯は少し踏み込む。


「湊さんも、あの港から出たとですよね」


しばらくして、湊は頷いた。


「行ったよ」


昨日よりも、はっきりした声だった。


「帰ってくるつもりやった」


それは疑いのない事実のように聞こえる。


「待っとる人がおったけん」


灯は息を整える。


「ご家族、ですか」


問いながら、自分でも違うとわかっている。


湊は小さく笑った。


「家族、とは言えんやろな」


その言い方に、灯の胸が静かに波立つ。


「……大事な人やった」


昨日と同じ言葉。


けれど今日は、少しだけ重い。


灯は港を見下ろす。


小さな船がゆっくり動いている。


「その人は、待っとらんかったとですか」


自分でも残酷な問いだと思う。


湊は首を横に振った。


「わからん」


間を置いて、続ける。


「きっと、忘れたやろ」


灯はすぐに否定する。


「忘れん人もおる」


昨日と同じ言葉なのに、今日ははっきりしている。


「ずっと、ひとりで待っとる人もおる」


両親のことが頭をよぎる。


忘れられないものは、消えない。


湊は静かに笑う。


けれどその笑みは、どこか自分を守るようだった。


「俺は、帰れんやった」


その言葉が、重く落ちる。


灯は気づく。


湊は“帰れなかった”と言っている。


帰らなかった、ではない。


「どうして」


自然に口をついて出る。


湊は少しだけ教会の方を見た。


すぐに視線を逸らす。


「若かったけん」


短い。


それだけでは理由にならない。


けれど、湊の中ではそれで完結しているようだった。


灯は、昨日見た赤い光を思い出す。


罪を告げる色。


「若いと、帰れんとですか」


問いかける。


湊は答えない。


代わりに、ぽつりと呟く。


「罰やと思うた」


灯の心臓が強く打つ。


「何の罰」


今度は逃げない。


湊は、わずかに笑った。


「大事にしたらいかんもんを、大事にした罰」


はっきりとは言わない。


でも、灯には伝わる。


教会に入らない理由。


名簿の空白。


消えた番号。


この人は、自分の想いを罪だと思っている。


灯は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「それは、罪やない」


気づけば、言葉が出ていた。


湊は驚いたように灯を見る。


まっすぐ、初めて長く。


その視線は、揺れている。


「……そうやろか」


弱い声。


灯は強く頷く。


「誰かを大事にすることは、罰やない」


自分にも言っている。


両親に「港に行きたい」と言ったあの日の自分にも。


しばらくの沈黙。


やがて雲の切れ間から光が差す。


朝の光。


湊の輪郭が、少しずつ淡くなる。


「帰りたいと思うただけや」


最後にそう言って、


湊は光の中に溶けるように姿を消した。


灯は立ち尽くす。


帰りたいと思うこと。


それが罪になるはずがない。


それでも湊は、そう思っている。


教会に入らない理由。


名簿の空白。


忘れられたと思い込んでいる“誰か”。


灯は確信する。


湊の物語は、まだ終わっていない。

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