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昼過ぎ、台所に立つと、叔母は味噌を溶いていた。
「灯、暇なら買い物行ってきてくれん?」
差し出された小銭。
断る理由もない。
商店街は昔より静かだった。
顔なじみの店も、半分はシャッターを下ろしている。
変わった街。
変わらない坂。
帰り道、港が見えた。
無意識に足が止まる。
あの日のことを、思い出そうとする。
濡れた匂い。
泣き声。
誰かの手。
けれど、そこから先が霞む。
「灯?」
背後から声。
振り返ると、従兄が立っていた。
「港、好きやなかろ」
からかうような口調。
灯は首を振る。
「好きやなかよ」
従兄は少し黙る。
それから、ぽつり。
「……あんまり近づかん方がよか」
「どうして」
「別に。なんとなく」
視線が泳ぐ。
灯はまっすぐ見る。
「事故のこと?」
その瞬間、空気が止まる。
従兄は眉を寄せる。
「思い出したん?」
「….」
「俺は覚えとるよ」
灯の胸がざわつく。
「何を」
従兄は目を逸らす。
「……覚えとる」
それだけ言って、歩き出す。
灯はその背中を見つめる。
“何を”覚えているのか。
両親が亡くなったのは、海難事故。
そう聞かされている。
嵐でもなかった。
船でもなかった。
ただ——
足を滑らせた、と。
二人同時に?
胸の奥が冷える。
夜、食卓。
灯は何気ないふりで口にする。
「事故の日って、雨やったっけ」
叔母の箸が止まる。
ほんの一瞬。
「……急にどうしたと」
「なんとなく」
味噌汁を置く音が、少し強い。
「昔のことやろ」
笑う。
けれど目が笑っていない。
「もうええやろ。」
“終わった話”という響き。
灯は頷く。
それ以上は言わない。
でも、確信する。
この家は、
事故の話を避けている。
触れてはいけないもののように。
夜、布団の中。
眠れない。
ふと、思う。
湊は言った。
——あの日も、雨やった。
誰の、あの日?
灯の記憶は曖昧だ。
けれど、湊の声ははっきりしている。
まるで、見ていたみたいに。
胸がざわつく。
安心と、不穏が混ざる。
翌朝。
また坂を上る。
聞きたいことがある。
でも、
聞いてしまったら戻れない気もする。
石段の上に、
今日も湊は立っていた。
港を見下ろしている。
まるで、
ずっとそこにいるみたいに。




