四話
メンヘル要素が濃いです、ご注意を。
ほどなくして、小さなアパートの前に着いた。
「ここの二階です、足元悪いので気をつけて...」
私は洋二さんの後をついて、錆びた鉄の階段を上がる。
階段を上がってすぐが、洋二さんの部屋だった。古くなって塗装の剥がれたドアを開ける。ワンルームだった。
「すみません、汚いところで...」
「いえ....」私は曖昧に笑った。
確かに汚い。掃除も何もしてないのだろう。部屋の隅の布団も、部屋の真ん中の小さなテーブルも、汚れて、ゴミが散らばっていた。
「掃除、する気力がなくて...元気なときはできるんですけど...あ、何か飲みますか?ジュースありますし...」
「ああ、おかまいなく」
でも洋二さんは、一人暮らし用の冷蔵庫からなっちゃんを出して、コップに注いでくれた。
「ありがとうございます、いただきます」私がそう言ってコップを受け取ると、洋二さんは、こう言った。
「...あなたは、しっかりしてますね...ご両親のしつけがいいんでしょう...」
「そんなことないです、普通ですよ」
「そうですか...ご両親、優しくしてくれますか?」
「いえ...なんか、私なんかどうでもいいみたいで...」
普段なら絶対言わない愚痴を、まるで知らない人にこぼすのは、なんか変な感じだ。
「そうなんですか?」
洋二さんは正座して身を乗り出して、私の話を聞いていた。
「掲示板にも書きましたけど、今度離婚するらしいです...私そんなの全然知らなくて、突然母に言われて...」でも、なんだかすらすら言葉が出てきた。
「そうなんですか...それはショックだったでしょう」
「いえ...まあいつも喧嘩してたし、仕方ないかなって...」
「そうですか...」
しばし、沈黙があった。
「あの...私のことも、少し話していいでしょうか...」
「いいですよ」
「ありがとうございます...」洋二さんは、泣きそうな顔をしながら、話し始めた。
「私の両親は、早くに亡くなったんです...私は親戚に養われていたんですが...親戚は私に冷たくて、ストレスからうつになりました...もう、20年になります...」
「え、そんなにずっと病気なんですか?」私はすごく驚いた。
「はい...」
「あの...もし...聞いてもいいですか?うつってどんな病気なんですか?」
「そうですね..うつは...気分的に疲れきってしまうときに、なりやすいでしょうか..気分が重くなって、何もする気力が出なくて..それが治らなくて、食欲が失くなったり、眠ろうとしても眠れなかったり、朝起きられなかったり...そういうのがずっと続いて、だんだん、死にたくなってくるんです..たぶんこんなところだと思います」
そうだったんだ、なんか想像してたのと違うな...ただ単に気分が暗くなるくらいだと思ってた...
「そんな状態が...20年も続いてるんですか?」
「はい...」
私は絶句してしまった。想像することしかできないけど、それがすごく辛いことだとはわかった。同時に、自分の今の状態がそれに近いことに、怖くなった。
「あの、あなた、お名前はなんていうんですか?」洋二さんが聞く。
「あ、愛です...」
「愛さんですか..愛さんも死にたいんですよね..病院などは、行っていないんですか?」
「はい...」
「さっき私が言ったような症状が出てきたら、行ったほうがいいですよ...うつも、早期発見が大切ですから...」
「そうなんですか...」
でも、精神科に通ってるなんて、周りに知られたくないなあ...なんて言われるかわからないし...
「愛さんは今、高校生ですか?」
「あ、はい」
「もし気分を害したらすみません、亡くなったお友だちというのは...同じ学校の人ですか?」洋二さんはすまなそうにそう聞いた。
「...はい...ちょっとしか話したことないんですけど...」
「そうですか...あまり仲がよかったわけではなかったんですか?」
「...いえ、この人と気が合うな、ずっと友だちでいたいなって...思ったんです...」洋二さんは、うんうんと頷いていた。
「そう思った次の日に...死んだって聞いて...っ!」私の目からぽろぽろと涙がこぼれた。今日、泣いてばっかだ。
「ああ、大丈夫ですか?すみません、そんなに悲しいことを聞いてしまって」洋二さんはおろおろしている。
「いいえ...誰にも話せなくて..誰かに話したかったんです、すみません私こそ...」私は嗚咽を堪え、服の袖で涙を拭いた。
「そうですか...私でよかったらいくらでも聞きますから、どうぞ話してください」
「洋二さん、優しいんですね..」
「いえ...」
その後は日々の辛いことや、楽しいことを話した。
洋二さんの話すことは、驚くことが多かった。
病院で出された薬が合わなくて具合が悪くなったり、会社をやめてからは生活保護を受けていたりと、聞いていると胸が痛くなった。
でも、カメラを買って写真を撮り始めてから、少しだけ毎日が楽しくなったこと、少し具合がよくなくても写真を撮りに外に出られるようになったことなど、楽しみを見つけることでずいぶんよくなるんじゃないかと洋二さんは言っていた。
「ああ、朝になりましたね...」二人の長い話が終わると、洋二さんがそう言った。
ふと見ると、部屋の窓のカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。
「そうですね...」
「....私、今日、とても具合が悪くなって...もう死のうと思ってました...でもこうして愛さんに会って、話を聞いてもらって... もう少しだけ頑張れるかもしれないと思いました....ありがとう.....」洋二さんは涙を流してお礼を言った。
「私こそ、ありがとうございます、大変なのに、話聞いてくださって...」
「いえ、愛さんも落ち着きましたか...?」
「はい」そういえば、死にたい気持ちは大分薄らいでいた。
「では...そろそろ、帰りますか?」
「はい...」
洋二さんは、家の近くのコンビニまで私を送ってくれた。
家に帰って荷物を部屋に置くと、寝室から出てきた母に、どこに行っていたか咎められ、私は、眠れなかったから散歩していただけと言った。
「ほんと?ほんとにそれだけなの?」
「うん...」
「そう、ならよかった...でも危ないから散歩は夜はやめなさいね」
私はそれを聞いて、母に失望したような気がした。
心配してくれればいいってわけじゃないけど、子どもが夜中に出歩くのはだめだから注意するだけなのかな...やっぱり、私なんかどうでもいいのかな...
それから、父と母が離婚して私が母に引き取られて引っ越していくまで、家の中は前とは打って変わって静かになった。
父と母は互いにもう関係ないと割り切ったのか、最低限の会話だけ、私も常に部屋にこもるようになり、学校を休みがちになっていった。
引っ越しも済み、新居は少し手狭ではあるが、なんとか落ち着いたころ。
教室に息苦しくていられなくなっていた私は、ここ一週間ほど、保健室登校をしていた。
今の時代、それはめずらしいことでもないので、ちょっと過保護な保健の先生と話したり、勉強をしながら、午後を過ごしている。
ある日、いつもの通りに昼過ぎに保健室に入ると、ベッドに、女の子が寝ていた。珍しいな、怪我でもしたのかな。
「おはよう愛ちゃん」保健の先生が声をかけてくる。
「おはようございます...」
「今日の具合はどう?」
「えっと、普通、です(笑)」
「そう」
すると、私たちの話し声で目が覚めたのか、ベッドにいた女の子がいきなりむくりと起き上がった。わっ、すごいかわいい子だな。
ぱっちりした大きな目に、きれいに伸びた長い髪が儚げで、華奢な体をしている。
一瞬、私とその子の視線がかち合ったが、すぐに向こうが窓の外へと目を逸らす。
「二人とも、先生職員室に行ってくるから、ゆっくりしててね」
保健の先生はそう言って、何か書類を抱えて出て行った。
保健室には、私と窓際の女の子だけになった。ベッドに横になろうにも、人がいると、緊張してしまう。でも無視するのも悪いし...
「あなた、具合悪いの?」
「いいえ」その子は、落ち着いた声で、一言だけ答えた。
「じゃあ、あなた、ここによく来るの?」
「ええ」
「名前、なんて言うの?」
「...あなた、失礼ね」さっきと変わらない静かな声で、そう言われた。
「え?」
「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀でしょう?」
「あ、すみませ「ああいいわよ、あなたでしょ、愛さんって」
「え?私のこと知ってるんですか?」
「ジュンから聞いたわ」
「あなたは...?」
「ジュンの友だち、ミズホっていうの」
「そうなんですか...」
「ジュンは自分には友だちがいないなんて思ってたようだけど、そんなのあいつが思い込んでただけよ、あなたもそうよね?」
私は、彼女がどちらの意味で"そう"と言ってるのかわからなかった。
私もジュン君の友だちだというのか、私もそう思い込んでるだけだというのか...
「私も保健室登校なの。よろしくね、新入りさん」ミズホさんはそう言って、少しだけ微笑んだ。
ある日、私と母は、母の妹のリョウコさんを訪ねた。リョウコさんは明るく迎えてくれた。
リョウコさんは前に離婚を経験していて、息子さん、つまり私の従兄弟がいるのだが、その日は学校に行っていたので、会わなかった。
リョウコさんは、今度の父と母の離婚のことを知ってるらしく、私たちを慰めようと色々と話をしてくれた。でも、私は早く家に帰りたかった。
母がトイレに立ったとき、リョウコさんは席をつめて、私の隣に座った。そして、小さな声でこう話し出す。
「ねえ愛ちゃん、離婚しちゃうのはとても悲しいけど...二人が愛ちゃんのお父さんお母さんなのは変わらないと思うわ」
「...悲しくなんてないです」
「強がることないのよ」
「別れるのは二人の勝手ですから...」
「怒ってるのね」
「別に、怒ってません」
「二人は、愛ちゃんを愛してると思うわ」
「そうですか」
「信じろと言っても無理かしら、でも、親の愛は絶えないものよ」
自分で自分が腹立たしい程に、私はその言葉を信じられなかった。ありきたりで、上辺だけだと思った。
リョウコさんはお昼になると、パスタを茹でてくれた。三人で黙々と食べた。
疲れ切った母、慰めようとする叔母。そしてどうしたらいいか分からない自分。
離婚ってこういうことなのかな、と、カルボナーラを食べながら思った。