第30話 ミオ
時計を見ると、まだ八時を少し過ぎたところだった。
「十二時まで、あと四時間か……」
思ったより時間がある。
高志はまだ体調が万全ではないため、部屋へ戻った。
千夏と藤崎先輩は奈緒のところへ行った。
松田先輩は大野先輩を探している。
残ったのは、俺と神谷先輩だけだった。
「どうします?」
「暇だな」
神谷先輩がスマートフォンから顔を上げる。
「遊技室行かない?」
「朝からですか?」
「朝だからだよ。誰もいないだろ」
「そういうものですかね」
「十二時まで何もしないで座ってるよりいいだろ」
それはそうだった。
「じゃあ行きますか」
「よし」
二人でダイニングホールを出て、遊技室へ向かった。
◇
遊技室には、案の定誰もいなかった。
「ビリヤードやろうぜ」
「先輩、できるんですか?」
「もちろん」
「本当ですか?」
「何で疑うんだよ」
「神谷先輩だからです」
「失礼だな」
そう言いながら、神谷先輩はキューを一本取る。
俺も隣にあったものを手にした。
何度か遊んだことはあるけど、そこまで上手いわけじゃない。
「勝った方が昼の話し合いの仕切り役な」
「嫌ですよ。松田先輩がやってくれるって言ってたじゃないですか」
「ああ、副部長様な」
神谷先輩が少し笑う。
「……何です?」
「何でもない」
「さっきからそれ多くないですか?」
「気のせいだって」
何なんだろう。
少し気になったものの、神谷先輩が球を並べ始めたので、俺も準備を手伝った。
ゲームを始めて少ししたころだった。
「失礼いたします」
声がして振り返る。
若い女性の使用人が、飲み物を載せたトレーを持って立っていた。
「若様、お飲み物はいかがでしょうか」
「あ、ありがとうございます」
「勝田、もらおうぜ」
「先輩は本当に遠慮ないですね」
「出してくれるって言ってるんだからいいだろ」
「まあ、そうですけど」
結局、俺も紅茶をもらった。
神谷先輩は冷たいジュースを選び、さっそく飲み始めている。
「うまい」
「朝からよく飲みますね」
「水分補給は大事だぞ」
「さっきも飲んでたじゃないですか」
そんなやり取りをしていると、使用人の女性が小さく笑った。
その笑顔を見て、ふと思う。
昨日からこの屋敷では、何人もの使用人に世話になっている。
けれど。
俺は久世さん以外の名前を、一人も知らなかった。
「あの」
「はい、若様」
「そういえば、お名前って聞いてもいいですか?」
女性が少し驚いたように俺を見る。
それから丁寧に頭を下げた。
「お気遣いには及びません。どうぞ、使用人とお呼びくださいませ」
「いや……」
「御用の際には、近くにいる者へお申し付けいただければ、誰でも対応いたしますので」
「そういうことじゃなくて」
俺は少し困った。
「昨日からずっと世話になってるじゃないですか」
「それが私どもの役目でございます」
「でも、こっちは名前も知らないままなのも何か落ち着かなくて」
女性は黙って俺を見る。
「俺、若様とか呼ばれてますけど、別にそんな偉い人間じゃないですし」
「若様は若様でございます」
「それ、久世さんにも言われそうだな……」
神谷先輩が横で笑う。
「それに」
俺は続けた。
「今日一日、ここにいることになりそうなんで」
少なくとも今日の夕方くらいまではいる。
登山の話が終われば夜には帰るつもりだけど、それまで何度も世話になるだろう。
「だから、よかったら名前くらい教えてもらえませんか?」
少しの間。
女性は迷っているようだった。
やがて。
「……ミオと申します」
「ミオさん?」
「ミオで結構でございます」
「じゃあ、ミオ」
「はい」
ミオは微笑んだ。
「今後とも、何かございましたらお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます」
「勝田、早速仲良くなってんじゃん」
「普通に名前聞いただけでしょう」
「若様だからな」
「関係ないです」
ミオがまた小さく笑う。
「そういえば」
神谷先輩がジュースを飲みながら言った。
「ここって、メイドさん何人くらいいるの?」
「先輩、急ですね」
「気になったんだよ」
ミオは少し考えてから答えた。
「こちらでお仕えしている者は、複数おります」
「何人?」
「正確な人数は、私から申し上げることではございませんので」
「そこは秘密なんだ」
「申し訳ございません」
「いやいや、別に謝らなくていいよ」
神谷先輩は気にした様子もなかった。
俺も何となく聞いてみる。
「ミオたちは、ずっとこの屋敷に住んでるの?」
「はい」
「使用人用の部屋もあるんだ」
「ございます」
「どこに?」
「屋敷のニ階と地下に、私どものための区画がございます」
「地下?」
思わず聞き返した。
「この屋敷、地下もあるの?」
「はい」
「館内図には書いてなかったですよね?」
「お客様がお使いになる場所ではございませんので」
「ああ、なるほど」
使用人専用なら、わざわざ客向けの館内図に載せる必要はないのかもしれない。
「みんなそこに住んでるんですか?」
「はい。休息を取る際なども、そちらへ戻ります」
「大変ですね」
「いえ」
ミオは静かに笑う。
「皆様に快適にお過ごしいただくことが、私どもの役目ですので」
「でも昨日なんて相当大変だったでしょう」
「昨日?」
「うちの先輩たちですよ」
俺は神谷先輩を見る。
「何で俺見るんだよ」
「昨日、部屋まで連れていってもらったじゃないですか」
「ああ……」
「覚えてないんでしょうけど」
「それは否定できない」
「高志も大野先輩も松田先輩もですけど、神谷先輩も相当迷惑かけてますからね」
「俺だけじゃないじゃん」
「だから『先輩たち』って言ったでしょう」
ミオが口元に手を当てて笑っている。
「笑われてますよ」
「お前のせいだろ」
「先輩のせいです」
「まあ、今日から気をつけるよ」
「本当ですか?」
「ああ」
「今日も酒飲みたいって言ってましたよね?」
「それはそれ、これはこれ」
「何が違うんですか」
「飲むけど、迷惑はかけない」
「昨日も最初はそう思ってたんじゃないですか?」
「……」
「ほら」
「それも否定できない」
「何なら否定できるんですか」
ミオが今度は声を出して笑った。
「あ」
俺が見ると、ミオは少し慌てたように頭を下げる。
「失礼いたしました」
「いや、全然いいですよ」
「ほら、ミオも笑ってんじゃん」
「神谷先輩が面白いこと言うからですよ」
「俺、何も面白いこと言ってないけど」
「存在が面白いんじゃないですか?」
「勝田、お前最近俺の扱い雑になってない?」
「気のせいです」
「絶対気のせいじゃないだろ」
またミオが笑う。
さっきまでは、ただ屋敷にいる使用人の一人だった。
でも名前を知っただけで、少しだけ距離が近くなった気がした。
「じゃあミオ」
「はい」
「また何かあったらお願いします」
「かしこまりました、若様」
「だから、その若様っていうのも別に……」
「そちらは変えられません」
珍しく即答された。
「そこは駄目なんだ」
「はい」
神谷先輩が吹き出す。
「諦めろ、若様」
「神谷先輩まで言わないでください」
ミオは笑いながら一礼すると、空になったグラスをトレーへ戻した。
「それでは、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
「ありがとうございます」
「またな、ミオちゃん」
「神谷先輩、いきなりちゃん付けですか」
「いいだろ?」
ミオは困ったように笑いながら、遊技室を出ていった。
扉が閉まる。
「感じいい子だな」
神谷先輩が言った。
「そうですね」
「若いし」
「そこですか?」
「別に変な意味じゃないって」
「本当ですかね」
「お前、俺を何だと思ってんだよ」
「昨日酔いつぶれて、今日も酒を飲みたがってる人です」
「ひどい評価だな」
俺は笑いながら、キューを構え直した。
「続きやりますよ」
「よし。今度こそ俺の番だな」
「さっきからずっとそうでしょう」
俺たちはそのまま、十二時までの暇を潰すようにビリヤードを続けた。
そのときの俺にとって。
ミオはただ、この屋敷で働いている若い使用人の一人でしかなかった。




