第29話 大野先輩がいない
千夏と藤崎先輩がダイニングホールを出てから、しばらく経ったころだった。
高志は相変わらず椅子にもたれかかり、気持ち悪そうにしている。
神谷先輩はスマートフォンを触りながら、時々残っている料理をつまんでいた。
俺も紅茶を飲みながら、昼からの話し合いについて考えていた。
千夏も藤崎先輩も協力してくれると言っていた。
神谷先輩も。
高志も、今はこんな状態だけど、昼までには何とかすると言っている。
これなら本当に、今日こそ登山の計画を決められそうだ。
そう思っていたところで、ダイニングホールの扉が開いた。
「あ」
◇
入ってきたのは松田先輩だった。
「松田先輩」
「おう」
松田先輩はこちらまで歩いてくる。
「大野先輩、起きてました?」
俺が聞くと、松田先輩は少し難しい顔をした。
「それなんだけどさ」
「はい」
「修平、部屋にいなかった」
「え?」
神谷先輩もスマートフォンから顔を上げる。
「修平いなかったの?」
「ああ」
「もう起きてどっか行ったんじゃないですか?」
俺が言うと、松田先輩は首を傾げた。
「俺も最初はそう思ったんだけどな」
「違うんですか?」
「部屋ノックしても返事なくてさ。何回呼んでも出てこなかったから、中も見てみたんだよ」
「入ったんですか?」
「鍵もかかってなかったからな」
松田先輩は近くの椅子を引いて座った。
「でも、誰もいなかった」
「じゃあ、やっぱり先に起きて出かけたんじゃないですか?」
「それがさ」
松田先輩が少し考える。
「ベッド、ほとんど使った感じなかったんだよ」
「ベッド?」
「ああ。荷物は置いてあるんだけど、寝た形跡がほとんどなくて」
「……昨日、部屋に戻ってないってことですか?」
「分からん」
松田先輩が腕を組む。
「俺も昨日は潰れてたから、修平がそのあとどうしたのか知らないし」
「俺も知らない」
神谷先輩が言う。
「気づいたら朝だったからな」
「先輩たち、全員そうですよね」
「そう」
役に立たない。
「それで、一応その辺も探してたんだよ」
「だから戻ってくるの遅かったんですか?」
「ああ」
そういうことか。
弘と別れてから、随分時間が経っていたから少し気になっていた。
「でもいなかった」
「風呂とかじゃないですか?」
俺が言うと、松田先輩は神谷先輩を見る。
「俺もそう思って、さっき亮介にも聞いた」
「聞かれた」
神谷先輩が頷く。
「俺がいた三階の大浴場には来てなかったぞ」
「一階の方は?」
「俺、そっちも入ったから」
「……そういえばそうでしたね」
朝から風呂を二つとも制覇した人間がここにいた。
「俺が入ってた時間にはいなかったな」
「じゃあ風呂でもないのか……」
松田先輩が呟く。
俺は少し心配になった。
「大丈夫ですかね」
「何が?」
神谷先輩が聞く。
「いや、大野先輩ですよ。昨日かなり酔ってましたし」
「大丈夫だろ」
「でも部屋にも戻ってないみたいですし」
「勝田君、相変わらず心配性だな」
「普通心配しません?」
「修平だぞ?」
「それで納得しろって言われても」
俺はまだ大野先輩とそこまで長い付き合いではない。
神谷先輩や松田先輩ほど、どういう人なのか知っているわけでもなかった。
「まあ、勝田君が心配するのも分かるけどな」
松田先輩が言った。
「俺も気になるから探してたわけだし」
「ですよね」
「当たり前だろ」
松田先輩は当然のように続ける。
「俺は副部長だからな」
「……」
その瞬間。
神谷先輩が少しだけ笑った。
「何だよ、亮介」
「いや、何でもない」
「何笑ってんだ?」
「別に」
神谷先輩はまたスマートフォンに視線を戻した。
俺はむしろ少し感心していた。
やっぱり副部長となると、こういうところまで気にするものなんだろう。
「松田先輩、ちゃんとしてますね」
「ん?」
「いや。大野先輩がいないからって、わざわざ探してたじゃないですか」
「そりゃそうだろ」
「副部長だったら、やっぱりそういうところも気になりますよね」
「もちろん」
松田先輩は真面目な顔で頷く。
「それに修平は友達だしな」
「ああ、それもそうですよね」
「長い付き合いだからな」
やっぱり先輩なんだな。
昨日は散々飲んで騒いでいたけど、こういうときはちゃんと仲間のことを気にしている。
そう思っていると。
「あれ?」
松田先輩が高志に気づいた。
「田野君、何その顔」
「……二日酔いです」
「まだ治ってないの?」
「最初よりはだいぶマシです……」
高志が力なく答える。
「味噌汁飲んだらちょっと良くなったんですけど、そのあとお粥を少し食べたら、また気持ち悪くなってきました」
「無理して食うからだろ」
「俺もそう思います」
「ここで吐くなよ?」
「そこまでじゃないです……」
「本当か?」
「吐くほどじゃないです。ただ、もうちょっと横になりたいです」
高志はそう言って、ゆっくり身体を起こした。
「部屋戻るのか?」
「そうします」
「一人で大丈夫?」
俺が聞くと、高志が嫌そうに俺を見る。
「弘」
「何だよ」
「本当にお前、俺の母親みたいになってきてるぞ」
「心配してるだけだろ」
「大丈夫だから」
立ち上がった高志は、まだ少しふらついていたものの、歩けないほどではなさそうだった。
「じゃあ俺も行くわ」
松田先輩も立ち上がる。
「大野先輩探すんですか?」
「ああ。もうちょっと見てみる」
「まだ探すの?」
神谷先輩が呆れたように言った。
「やめとけって。どうせ修平ならどっかで遊んでるだけだぞ」
「でも連絡つかないんだよ」
「電話も?」
「出ない。メッセージも既読つかない」
「スマホ見てないだけだろ」
「まあ、そうかもしれないけどな」
松田先輩は俺と神谷先輩を見る。
「もし修平見かけたら、俺に連絡するように言っといてくれ」
「分かりました」
「俺にも?」
「お前もだよ」
「はいはい」
「千夏ちゃんとか藤崎にも会ったら伝えといて」
「分かりました」
松田先輩が高志を見る。
「田野君、部屋まで一緒に行く?」
「お願いします。途中まで同じ方向ですよね」
「ああ」
「じゃあ高志、ちゃんと休めよ」
「分かってる」
「昼までには戻ってこいよ」
「それも分かってるって……」
高志が面倒そうに答える。
「十二時、グレートホールだからな」
「はいはい」
「本当に大丈夫か?」
「弘」
「何だよ」
「うるさい」
「……分かったよ」
神谷先輩が笑った。
「やっぱ保護者じゃん」
「違いますって」
「じゃ、行くぞ田野君」
「はい」
松田先輩と高志は、一緒にダイニングホールを出ていった。
扉が閉まる。
俺は少しだけ、その扉を見つめていた。
「……大野先輩、本当に大丈夫ですかね」
「まだ言ってんの?」
神谷先輩が呆れたように笑った。
「心配しなくていいって」
「でも昨日から部屋に戻ってないんですよ?」
「修平なら普通にありえる」
「そんな人なんですか?」
「遊び人だからな、あいつ」
「遊び人?」
「ああ。面白そうなもん見つけたら、すぐそっち行くタイプ」
「へえ……」
「こんな屋敷だぞ? 修平からしたら探検する場所だらけだろ」
神谷先輩が周囲を見回す。
「部屋だっていっぱいあるし」
「案内板を見る限り、使える場所はそこまで多くないと思いますけど」
「トレーニングのところにいるかもしれないだろ」
「ああ」
「シアタールームに入り浸ってる可能性もある」
「それなら奈緒が気づきそうですけどね」
「じゃあ遊技室とか」
「ありそうですね」
「庭の方に行ってるかもしれないし」
確かに。
考え始めれば、いくらでも候補は出てくる。
「それか」
神谷先輩が少し笑った。
「メイドさんにちょっかい出してるかもな」
「メイドさん?」
「あいつなら普通にありえるぞ」
「大野先輩、そんな人なんですか?」
「十分ありえる」
神谷先輩は即答した。
「……本当に何でもありそうですね」
「だろ?」
それなら確かに、今から屋敷中を探して回る方が大変かもしれない。
「だから放っとけばいいって」
「でも松田先輩は探しに行きましたよ」
「圭介はああいうところ妙に真面目だからな」
「副部長ですしね」
俺が言うと。
神谷先輩は、また少しだけ笑った。
「……何です?」
「いや」
「また笑いましたよね?」
「気のせい」
「さっきから何なんですか」
「何でもないって」
よく分からない。
神谷先輩は楽しそうにスマートフォンを触っている。
「まあ」
神谷先輩が言った。
「修平の心配は、副部長様に任せとこうぜ」
「そうですね」
俺たちまで探しに行ったら、今度は昼の話し合いまでに全員集まれなくなりそうだ。
大野先輩だって、屋敷のどこかにはいるだろう。
何かあれば、自分から連絡くらいしてくるはずだ。
「じゃあ、俺たちはのんびりしてますか」
「それが一番」
俺はもう一度、紅茶のカップを手に取った。
少し冷めた紅茶を飲みながら。
大野先輩のことは、ひとまず松田先輩に任せることにした。




