幕間 もう一泊するために
「彩香先輩」
「ん?」
「このままでいいんですか?」
「このままって?」
「今日、帰るって話です」
「ああ」
藤崎はすぐに意味を理解したらしい。
「嫌なの?」
「嫌ですよ」
千夏は即答した。
「まだ全然遊んでないじゃないですか」
「昨日あれだけ遊んでたのに?」
「あれはほとんど宴会してただけです」
「それも遊びだと思うけど」
「そうですけど」
映画も見ていない。
遊技室だってろくに使っていない。
食事はおいしいし、酒もある。
部屋は広い。
使用人たちは、何を頼んでも嫌な顔一つしない。
「彩香先輩だって、もう一泊したいですよね?」
「したい」
こちらも即答だった。
「ですよね」
「むしろ、何で今日帰らなきゃいけないのって思ってる」
千夏は笑った。
問題は弘だった。
昼には全員で登山の計画を決める。
夜は宴会。
酒は少しだけ。
そして、そのまま帰る。
さっきまで何度も念を押していた。
「弘、本気ですよね」
「勝田君? たぶん本気だよ」
「普通にもう一泊したいって言っても無理そうですよね」
「無理だろうね」
藤崎は少し考えた。
「でもさ」
「はい?」
「勝田君って、何で今日帰れると思ってるんだろうね」
「何でって……」
「昼に登山の計画を全部決めるつもりだからでしょ?」
「ああ」
「行く山も、日にちも、泊まりか日帰りかも。全部決めて、それで今日の目的は終わり」
「はい」
「だから夜に宴会して、そのあと帰る」
「そうですね」
藤崎が笑った。
「じゃあ、決まらなかったら?」
「……え?」
「登山の計画」
千夏は少し考えた。
「決まらなかったら……」
「勝田君、帰れると思う?」
「……帰らなそう」
「でしょ?」
藤崎の笑みが少し深くなった。
「勝田君、真面目だからね」
「真面目なの関係あります?」
「あるよ」
藤崎は頬杖をついた。
「登山の計画を決めるためにここへ来たのに、何も決まってません。でも時間だから帰りましょう、ってできるタイプじゃないでしょ?」
「ああ……」
「むしろ、決まるまでやろうとすると思う」
「確かに」
「ちょっと融通利かないところあるし」
「ありますね」
「だから、登山の計画が終わらなければ、勝田君は自分から帰れない」
「……なるほど」
「こっちは、話し合いを続けてればいいだけ」
千夏の顔が少しずつ明るくなる。
「じゃあ……」
「うん?」
「本当にもう一泊できるんですか?」
「できるよ」
「本当に?」
「一泊どころか、うまくいけばもっと泊まれるかもよ。千夏ちゃんも、もっとここで遊びたいでしょ?」
「えっ、そんなこと本当に可能なんですか?」
「大丈夫。任せなさい」
藤崎は自信ありげに笑った。
「絶対とは言わないけど、かなりいけると思う」
「やった!」
千夏が嬉しそうに声を上げた。
「ちょっと、声大きい」
「あ、すみません」
千夏は慌てて声を落とす。
それでも笑顔は消えなかった。
「でも、それなら奈緒も絶対喜びますよ」
「奈緒ちゃんも泊まりたがってた?」
「絶対泊まりたいって言いますよ。お酒も飲めるし、まだ遊びたいって言ってましたし」
「じゃあ奈緒ちゃんもこっち側だね」
「はい」
千夏は楽しそうに頷いた。
「奈緒に言ったら、すごい喜ぶと思います」
「じゃあ、あとで教えてあげて」
「分かりました」
そこまで言ってから。
千夏は少し考えた。
「でも、わざと話し合い進めなかったら、弘絶対怒りますよ」
「そうなんだよね」
二人で顔を見合わせる。
遊んでいて話が進まないのでは駄目。
真面目に話し合っている。
みんな参加している。
それなのに、なぜかなかなか結論が出ない。
そういう形でなければならない。
「でも、そんなうまくいきます?」
「大丈夫」
「本当ですか?」
「それも考えてある、任せなさいって」
藤崎はまったく不安そうではない。
「……何でそんな自信あるんです?」
「勝田君、分かりやすいから」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
「怪しいなあ……」
そのとき。
千夏はふと思い出した。
「そういえば、松田先輩が話をまとめるって言ってました」
「松田君が?」
「はい。副部長だからって」
藤崎の表情が止まる。
「……松田君が副部長?」
「弘と田野はそう思ってるみたいですよ」
「誰が言ったの?」
「松田先輩本人らしいです」
「へえ……」
藤崎が少しだけ目を細めた。
「それも使えるかも」
「え? 使えるって何にですか?」
「ちょっとね」
「……?」
「彩香先輩が副部長なんですよね?」
「そうだよ」
千夏は普通に頷く。
藤崎が自分を副部長だと言うのは、これまで何度も聞いていた。
「じゃあ松田先輩、何でそんなこと言ってるんですかね」
「さあ?」
そう答えながら。
藤崎の口元が、少しだけ緩んだ。
「……彩香先輩?」
「何?」
「今、何か思いつきました?」
「色々とね」
「何です?」
藤崎は少しだけ周囲を見た。
それから。
「千夏ちゃん」
「はい?」
「ちょっと耳貸して」
「え?」
「いいから」
千夏は怪訝そうな顔をしながら、藤崎へ顔を近づけた。
藤崎がその耳元で、小さな声で何かを話す。
「…………」
しばらくして。
千夏がゆっくりと顔を離した。
「……彩香先輩」
「ん?」
「それ、ちょっと弘がかわいそうじゃないですか?」
「そう?」
「そうですよ」
千夏は少し引いた顔で藤崎を見る。
「完全に弘の性格利用してるじゃないですか」
「利用じゃないよ」
「じゃあ何です?」
「勝田君の真面目さを活かすの」
「言い方変えただけじゃないですか」
藤崎が笑う。
「でも、うまくいきそうでしょ?」
「…………」
千夏は少し考えた。
「まあ……」
「ね?」
「それは認めますけど」
「私も嬉しいですけど」
「でしょ?」
「弘、たぶんその通りに動きますよ」
「だから大丈夫」
「やっぱりちょっとあくどいですよ」
「そんなことないって」
「ありますよ」
「私は可愛い後輩思いの先輩なんだけどなあ」
藤崎はそう言ったが、千夏はあまり納得していないような顔をしていた。
「そんな顔するなら、やめる?」
「やります」
千夏は間を置かずに答えた。
「やるんだ」
「それはやります」
藤崎が吹き出し、千夏もつられて笑った。
千夏はそう言いながらも、口元には笑みが戻っていた。
さっきまで本当に今日帰るしかないと思っていた。
それが、彩香先輩はもう一泊できると言っている。
しかもかなり自信がありそうだ。
「それで」
藤崎が少し声を落とす。
「千夏ちゃんと奈緒ちゃん、二人ともちゃんと私の方を支持してね」
「私たちもですか?」
「もちろん」
「途中で弘がかわいそうになって、弘の味方しちゃ駄目ってことです?」
「そういうこと」
「やっぱりあくどい……」
「もっとここにいたいんでしょ」
「はい」
「じゃあ協力して」
「……分かりましたよ」
「奈緒ちゃんにもちゃんと言ってね」
「はいはい」
「私をちゃんと応援するようにって」
「分かってますって」
千夏はため息をついた。
でも、すぐに笑う。
「奈緒なら喜んで乗ってくると思いますよ」
「でしょ?」
「こういうの好きそうだし」
「なら問題ないね」
「弘だけ問題ありますけどね」
「大丈夫大丈夫」
「それ、弘にとっては全然大丈夫じゃないですよね」
「そこは気にしない」
「ひどいなあ」
二人で小さく笑った。
すると藤崎がスマートフォンを取り出した。
「今度は何するんです?」
「ちょっと連絡」
「誰に?」
「協力してくれそうな人」
「神谷先輩とか?」
「さて、どうでしょう」
藤崎は答えず、楽しそうに画面を見ている。
何通かメッセージを送ったあと、藤崎は最後に『姉さん』と表示された相手にも短いメッセージを送った。
千夏には、まだ藤崎が何をどこまでやるつもりなのか分からなかった。
「彩香先輩」
「ん?」
「悪いこと考えてません?」
「考えてないよ」
「絶対考えてますよ」
「千夏ちゃんも共犯でしょ?」
「まだ何もしてません!」
「これからするじゃん」
「……そうですけど」
そこは否定できなかった。
「そろそろ戻りません?」
「あ」
少し話すだけのつもりだった。
これ以上離れていれば、何をしていたのか不思議に思われるかもしれない。
「そうだね。戻ろっか」
「はい」
二人は来た道を戻り始める。
「普通にしてればいいんですよね?」
「もちろん」
「何も企んでませんって顔で?」
「まだ何もしてないでしょ?」
「企んではいますよ」
「考えてるだけだから大丈夫」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
藤崎は平然としている。
本当にもう一泊できるかもしれない。
そう思うと、自然と足取りは軽くなった。
奈緒に話したら、きっと同じように喜ぶだろう。
そんなことを考えながら。
二人は何食わぬ顔で、ダイニングホールへ戻っていった。




