第20話 神谷先輩は泳いでいた
館内図を頼りに廊下を進む。
三階の大浴場は、本当にすぐ近くだった。
「近いな……」
俺の部屋から、歩いて数分もかからない。
三階の端。
廊下を曲がった先に、大きな入口が見えてくる。
その横には、男女それぞれの浴場を示す案内が出ていた。
「ここか」
大浴場というだけあって、入口からしてかなり広い。
館内図を見る限り、浴場はここだけではない。
一階には、小さめの浴場もある。
高志たち男連中の客室は一階だから、普段ならそっちの方が近いんだろう。
俺は三階だから、こっちの大浴場の方が圧倒的に近い。
「それにしても……」
一階に小浴場。
三階に大浴場。
しかも二十四時間使える。
ほとんど使われていないはずの屋敷に、どれだけ設備を揃えているんだろう。
「どんだけ金使ってんだよ……」
自分の家のことなのに、完全に他人の家の金遣いを心配している気分だった。
俺は男性用の入口へ入る。
脱衣所も広かった。
「……すげえ」
ロッカーがずらりと並んでいる。
洗面台も何台もあり、棚には大小のタオルまで用意されていた。
「あ、あるじゃん」
部屋から持ってこなくて正解だった。
タオルだけじゃない。
洗面台の周りにも、必要そうなものが一通り揃っている。
「本当に何でもあるな」
適当なロッカーを使い、服を脱ぐ。
小さなタオルを持って、浴場へ向かった。
扉を開ける。
「……うわ」
思わず声が出た。
広い。
名前通り、本当に大浴場だった。
大きな浴槽。
その周囲には、いくつもの洗い場。
そして、奥の壁の大部分が大きな窓になっていた。
「やっぱり」
展望風呂だ。
三階から見下ろす、朝の稲田市。
さっき自分の部屋から見た景色と、ほとんど同じものが湯船の向こうに広がっている。
住宅街。
駅。
遠くの道路を走る車。
まだ完全には目覚めていないような朝の街。
「これはすごいな……」
昨日の夜景も綺麗だったけど、朝は朝でいい。
こんな景色を見ながら風呂に入れるなら、わざわざ大浴場を作った理由も少し分かる気がした。
そう思いながら浴場へ入ったところで、水音が聞こえた。
「ん?」
誰もいないと思っていた。
でも、どうやら先客がいるらしい。
見ると、大きな浴槽の中で人影が動いていた。
というか。
泳いでいる。
「……何やってるんですか」
俺が言うと、その人物が顔を上げた。
「あ、勝田」
「神谷先輩!?」
神谷先輩だった。
「お前も来たのか」
「来たのかじゃないですよ」
俺は浴槽を見る。
「何で泳いでるんですか」
「広いぞ、ここ」
「見れば分かります」
「普通に泳げる」
「大浴場で泳がないでくださいよ。子供じゃないんですから」
「今、誰もいないからいいだろ」
「俺いますけど」
「一人増えただけじゃん」
「そういう問題じゃないです」
神谷先輩が笑った。
俺は洗い場で身体を流してから、湯船へ入る。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
気持ちいい。
昨日の疲れが、身体から抜けていくようだった。
「いいだろ?」
神谷先輩が言う。
「いいですね、これ」
「景色もすげえし」
「俺の部屋からも、だいたい同じ景色見えるんですよ」
「マジで?」
「はい。俺の部屋も三階なんで」
「お前、この風呂の近くなの?」
「すぐそこですよ」
「ずるっ」
「何がですか」
「俺なんか一階からわざわざ上がってきたんだぞ」
「先輩の部屋、一階ですもんね」
「ああ」
「だったら、一階の小浴場の方が近いじゃないですか」
「もう入った」
「……はい?」
「小浴場」
神谷先輩が何でもないことのように言った。
「もう入ったよ」
「もう入ったんですか?」
「うん」
「じゃあ何でまた風呂入ってるんです?」
「いや、聞けって」
神谷先輩が湯船の縁に寄りかかる。
「俺、目が覚めたら部屋にいたんだよ」
「そりゃそうですよ」
「そうなの?」
「昨日、先輩たち全員酔いつぶれてたんで、久世さんたちに部屋まで送ってもらったんですよ」
「マジか」
「覚えてないんですか?」
「全然」
「でしょうね」
あの状態なら当然だ。
「それでさ」
神谷先輩が続ける。
「目が覚めたら結構早い時間で」
「はい」
「二度寝するのも何かもったいないだろ?」
「まあ」
「だから、とりあえず一階の小浴場に入ったんだよ」
「朝から元気ですね」
「風呂入ったら目も覚めたし」
「それで終わりじゃないんですか?」
「普通はな」
「普通は?」
「そのあと部屋戻ってさ」
神谷先輩が笑う。
「館内の案内見てたんだよ」
「ああ」
「そしたら三階に『展望大浴場』って書いてあるじゃん」
「それで?」
「せっかくなら、こっちも入ってみたいだろ?」
「風呂のはしごしてるじゃないですか」
「いいだろ。こんな屋敷に来る機会なんてそうそうないんだから」
「まあ、それはそうですけど」
「で、一階からわざわざ上がってきた」
「本当に来たんですね」
「来てみたら誰もいないし」
神谷先輩が広い浴槽を見る。
「こんだけ広いし」
「だから泳いでた?」
「そう」
「子供ですか」
「楽しいぞ」
「やりませんよ」
神谷先輩が笑った。
「しかし、お前はいいな」
「何がです?」
「部屋出たらすぐこれなんだろ?」
「まあ、かなり近いですね」
「若様待遇だな」
「関係ないですって」
「毎朝ここ入れるじゃん」
「住んでないですから!」
「住めばいいじゃん」
「昨日から何人にそれ言われたと思ってるんですか」
「みんな考えること同じなんだな」
「本当に他人事ですね」
「お前の家だろ?」
「……もうその話やめません?」
神谷先輩が声を上げて笑った。
俺たちはしばらく、窓の外を眺めながら湯船に浸かった。
「そういえば」
神谷先輩が言う。
「部屋もすごいな」
「先輩も朝見たんですか?」
「ああ。昨日はほとんど何も見ずに寝たからな」
「寝たっていうか、運ばれていったんですけどね」
「細かいことはいいんだよ」
「酔っ払いってみんなそれ言いますよね」
「朝起きてちゃんと見たら、何でも揃ってるじゃん」
「そうですね」
「着替えとかは自分で持ってきたけど」
「はい」
「洗濯までしてくれるんだろ?」
「あ、先輩も見ました?」
「あったあった」
神谷先輩が頷く。
「ランドリー用の袋」
「俺、もう昨日の服入れて外に出してきましたよ」
「夕方には戻ってくるって書いてあったな」
「そうみたいですね」
「便利すぎるだろ」
「ですよね」
そこで神谷先輩が俺を見る。
「……お前さ」
「何です?」
「やっぱり他人行儀だよな」
「はい?」
「『そうみたいですね』って」
「だって俺も今日初めて使うんですから仕方ないじゃないですか」
「ここ、お前の家だろ?」
「だから、もうそれはいいですって!」
また笑われた。
◇
しばらく風呂に入ったあと、俺たちは浴場を出た。
身体を拭いて着替えを済ませ、脱衣所の奥にある休憩スペースへ向かう。
「お」
神谷先輩が何かを見つけた。
「勝田、飲み物あるぞ」
「本当だ」
冷蔵ケースの中には、水やお茶、ジュースなどが何種類も並んでいる。
横にある案内を見る限り、どれも自由に飲んでいいらしい。
「風呂上がりの飲み物までタダか」
そう言いながら、神谷先輩は何の迷いもなく冷蔵ケースを開けた。
「あ、先輩」
「ん?」
「もうすぐ朝食ですよ」
「そうなの?」
「六時半からです」
「じゃあちょうどいいな」
「何がですか」
神谷先輩は既に一本手に取っている。
「飲むんですか?」
「飲むよ」
「朝食のときにも飲み物くらいあると思いますよ」
「勝田」
「はい?」
神谷先輩が、やけに真面目な顔で俺を見る。
「タダのものは、手を出せるときに手を出しとく価値があるんだよ」
「……そうですか」
「ああ」
妙に自信満々だった。
「一本飲んだくらいで朝飯食えなくなるわけじゃないし」
「まあ、それはそうですけど」
「しかも風呂上がりだぞ。今飲まなくていつ飲むんだよ」
「朝食のときですかね」
「それじゃ風呂上がりじゃないだろ」
「そこ重要なんですか?」
「重要だ」
神谷先輩はそう言い切ると、さっそく蓋を開けた。
そのまま一口飲む。
「うまっ」
「……よかったですね」
「勝田も飲めば?」
「俺は朝食まで待ちます」
「もったいないなあ」
「何がもったいないんですか。朝食だってタダでしょう」
「それとこれは別だ」
「よく分からないです」
神谷先輩は気にした様子もなく、満足そうにもう一口飲んだ。
その隣には、マッサージ機まで何台か並んでいた。
「お」
今度はそっちに目を向ける。
「勝田。マッサージ機あるぞ」
「本当だ」
「これもタダかな」
「多分そうじゃないですか?」
「じゃあ使おう」
「先輩、完全に満喫する気じゃないですか」
「せっかく来たんだから、使えるものは使わないとな」
「朝食行くんですよね?」
「もちろん。その前にちょっとだけ」
「元気ですね、本当に……」
昨日、酔いつぶれて使用人に運ばれていた人間とは思えない。
結局、せっかくだからと俺も一緒にマッサージ機を使うことにした。
「……これいいな」
神谷先輩が飲み物を片手に目を閉じる。
「先輩、昨日より元気になってません?」
「風呂二回入ったからな」
「二回も入ればそうでしょうね」
「勝田も気持ちよさそうじゃん」
「まあ」
否定はできなかった。
昨日の疲れも、身体に少し残っていた酒も、かなり抜けた気がする。
「そうだ」
神谷先輩が目を開ける。
「このあとどうする?」
「俺ですか?」
「朝飯とかないの?」
「ありますよ」
「どこ?」
俺は神谷先輩を見る。
「……もしかして、朝の連絡聞いてないんですか?」
「連絡?」
「久世さんから館内連絡来ませんでした?」
「知らない」
「先輩、何時からここにいるんですか」
「結構前から」
「じゃあ、多分それですよ」
「何が?」
「連絡来たとき、先輩ここにいたんですよ」
「ああ」
神谷先輩が納得したように頷く。
「じゃあ聞いてないわ」
「六時半から朝食です」
「どこで?」
「ダイニングホール」
「それどこ?」
「昨日のグレートホールから二部屋くらい先らしいですよ」
「詳しいな」
「俺はちゃんと連絡聞きましたから」
「さすが若様」
「関係ないです!」
神谷先輩が笑う。
「じゃあ、もう少ししたらそこ行くか」
「そうしましょう」
「場所頼むわ」
「分かりましたよ」
◇
マッサージ機を使い終えるころには、身体もすっかり軽くなっていた。
俺と神谷先輩は休憩スペースをあとにして、一緒に廊下へ出る。
「腹減ったな」
神谷先輩が言う。
「さっき飲んでたじゃないですか」
「あれは飲み物だろ」
「昨日あれだけ食べたのにですか?」
「寝たらリセットされた」
「便利な身体ですね」
「勝田は腹減ってないの?」
「まあ、少し」
「じゃあ早く行こうぜ」
「はいはい」
二人で階段へ向かう。
ダイニングホールは一階。
昨日使ったグレートホールの近くだ。
階段を下りながら、俺は何となく呟いた。
「……みんな、ちゃんと起きてるかな」
隣で神谷先輩が笑う。
「何ですか?」
「いや」
「何笑ってるんです?」
「お前、本当に引率の先生みたいだな」
「先生?」
「昨日からずっとそうじゃん」
神谷先輩が指を折る。
「酒飲みすぎるな」
「計画ちゃんと立てろ」
「早く寝ろ」
「朝ちゃんと起きろ」
「……最後のは今ちょっと思っただけですよ」
「似たようなもんだろ」
「別に保護者やってるつもりないですって」
「分かってるよ」
神谷先輩が笑う。
「そういうところがお前のいいところなんだろ」
「何ですか、急に」
「金持ちなのに偉ぶらないし」
「またその話ですか」
「若様なのにな」
「それもやめてください」
「はいはい、若様」
「絶対やめる気ないですよね」
そんな話をしながら、俺と神谷先輩は朝食が用意されているというダイニングホールへ向かっていった。




