第2話 稲田市
稲田市。
人口はおよそ十万人。
俺たちの大学がある街から東へ二十キロほど離れた場所にある、ごく普通の小さな都市だ。
特別有名な観光地があるわけでもない。
駅の周辺には店やマンションが並び、少し離れれば住宅街が広がっている。
俺にとっても、特別な場所というわけではなかった。
少なくとも、今までは。
◇
「で、結局どこで降りればいいんだ?」
翌日。
大学で高志にそう聞かれて、俺はスマートフォンの地図を開いた。
「東央線の稲田駅」
「東央線か。大学からだと乗り換え一回?」
「たぶんな」
「お前、本当に行ったことあるんだよな?」
「あるって。ただ最後に行ったの十年くらい前だから」
「十年って……」
高志が呆れた顔をする。
「そんなに使ってない家なのか?」
「俺は使ってないってだけ。管理人はいるはずだよ」
「管理人までいるのかよ」
「知らないよ。昔はいたんだって」
「また坊ちゃん発言だな」
「うるさい」
俺はスマートフォンをポケットにしまった。
「あの家、親父と母さんが管理してるから。詳しいことは俺も知らない」
「それにしても、よく貸してくれたよな」
「ああ。母さんなんか、好きに使えばいいって感じだった」
「気前いいな」
「昔からそういうところはあるよ」
ただ、今回に限っては少し妙だった。
友達を何人連れていくのか聞かれたときも、母さんは嫌な顔一つしなかった。
むしろ、もっと呼んでもいいと言った。
「駅からは遠いの?」
「いや。駅を出ればすぐ分かると思う」
「家が?」
「ああ」
昔の記憶を思い返す。
「丘みたいなところの上に建ってるんだよ。結構でかいから、駅を出ると見えたはず」
「へえ」
「俺も細かい道までは覚えてないけど、見れば分かると思う」
「じゃあ歩き?」
「そうだな」
「タクシー使う奴もいるだろ」
「使いたきゃ使えばいいんじゃない? 俺は歩くよ。歩いて行く奴がいるなら一緒に行けばいい」
「じゃあ俺も歩く」
「荷物多かったら後悔するぞ」
「そのときは弘に持たせる」
「何でだよ」
高志が笑った。
こいつとは高校時代からの付き合いだ。
大学まで同じところに進み、今のサークルに俺を誘ったのも高志だった。
「で、待ち合わせ何時だっけ?」
「土曜の二時。稲田駅の改札前」
「了解」
◇
その日の夜。
サークルのグループLINEを見ると、参加予定だったメンバーから次々と返事が来ていた。
『参加!』
『俺も行く』
『二時了解』
『泊まりでいいんだよね?』
結局、予定していたメンバーは全員参加することになった。
女子メンバーも来る。
中でも佐倉奈緒と木村千夏はかなり楽しみにしているらしく、朝から何度もメッセージを送ってきていた。
『弘の家ってそんなに広いの?』
『泊まれるとか楽しみなんだけど』
『秋の登山先もちゃんと決めようね!』
高志がすぐに、
『どうせお前ら途中から飲み会になるだろ』
と返す。
『高志にだけは言われたくない』
奈緒から即座に返信が来た。
思わず笑った。
奈緒と千夏は、大学に入ってからサークルで知り合った。
まだ付き合いは短いが、二人とも話しやすく、最近は高志も交えてよく話すようになっていた。
今回二人も来ると聞いて、俺自身もちょっと楽しみにしていた。
久しぶりに行く家。
サークルのみんな。
秋の登山の相談をして、そのまま夜まで騒ぐ。
普通なら、楽しみな予定のはずだった。
なのに――。
「……何なんだろうな」
スマートフォンを置いた。
胸の奥に、妙なものが引っかかっている。
行きたくないわけじゃない。
嫌なことがあるわけでもない。
それでも、稲田という名前を見るたびに、何となく落ち着かなかった。
昨日の夢のせいだろうか。
――弘。約束は、ちゃんと守らなきゃだめよ。
あの女の声を思い出す。
「ただの夢だって」
自分に言い聞かせた。
十年ぶりだから、少し緊張しているだけだ。
そう思えばいい。
LINEには高志から新しいメッセージが届いていた。
『土曜楽しみだな』
俺は少し迷ってから、
『俺も』
と返した。
本当に楽しみだった。
それなのに、胸の奥に残った小さな不安だけは、どうしても消えてくれなかった。




