第18話 夢
ベッドに入ってから、どれくらい経ったのか分からない。
身体は疲れていたはずだった。
部屋へ戻って。
シャワーを浴びて。
ベッドに横になって。
そのまま眠ったはずなのに。
眠りに落ちた感覚すら。
ほとんどなかった。
気がつくと。
俺は、暗闇の中に立っていた。
「……ここ」
何もない。
どこまで続いているのかも分からない暗闇。
足元さえ。
はっきりとは見えない。
それなのに。
俺は、この場所を知っていた。
「……また、この夢か」
前にも見た。
何度か繰り返している夢。
暗闇。
誰かの気配。
そして。
女の声。
俺はゆっくりと辺りを見回した。
すると。
少し離れたところに。
人影が立っていた。
「…………」
女だった。
長い黒髪。
異様なほど白い肌。
身体には。
黒いコートのようなものを羽織っている。
「……また、あの女だ」
間違いない。
前の夢にも出てきた女。
顔は。
やっぱりよく見えない。
長い髪がかかっていて。
表情までは分からなかった。
ただ。
女がこちらを見ている。
それだけは分かった。
「…………」
逃げた方がいい。
一瞬。
そう思った。
理由なんてない。
ただ。
ここにいてはいけないような気がした。
俺は後ろへ下がろうとする。
「……え?」
身体が動かない。
足に力を入れているはずなのに。
一歩も下がれない。
腕も。
身体も。
まるで何かに固定されているみたいに。
動かなかった。
「何だよ、これ……」
声だけは出る。
でも。
それ以外は何もできない。
俺はその場に立ったまま。
女を見ることしかできなかった。
しばらく。
何の音もしなかった。
そして。
女がゆっくりと口を開いた。
「やっと、来てくれましたね」
「……え?」
静かな声だった。
前に聞いた声と。
同じだった。
優しい声。
なのに。
なぜか背中が冷たくなる。
「ずっと、待っていました」
「…………」
女は。
どこか嬉しそうだった。
「あの……」
返事はない。
「俺のこと……知ってるんですか?」
「…………」
答えない。
ただ。
俺を見ている。
「前にも会ったことがあるんですか?」
「…………」
「あなたは誰なんです?」
「…………」
「何で俺の夢に出てくるんですか?」
何も答えない。
「俺に何か用があるんですか?」
「…………」
やっぱり。
女は黙ったままだった。
「何なんだよ……」
向こうから話しかけてきたくせに。
俺が何を聞いても。
一つも答えてくれない。
聞こえていないわけではない。
俺が話すたびに。
こちらをじっと見ている。
でも。
答える気はないらしい。
「…………」
しばらく。
沈黙が続いた。
どれくらい経ったのかは。
分からない。
数秒だったのか。
もっと長かったのか。
夢の中だからなのか。
時間の感覚まで。
曖昧だった。
やがて。
女が再び口を開いた。
「もうすぐです」
「……何が?」
当然。
答えはない。
「もうすぐ」
女は。
俺の質問など聞こえなかったかのように続けた。
「会えますから」
「……会える?」
胸の奥が。
ざわついた。
「誰に?」
「…………」
「あなたに?」
「…………」
「どこで会うんですか?」
答えない。
「俺、あなたのこと知らないですよ」
「…………」
女は。
静かに微笑んでいる。
そして。
「それに」
「…………」
声が。
ほんの少しだけ。
嬉しそうになった。
「ちゃんと、ここまで連れて来てくれましたね」
「……連れて来た?」
何を?
誰を?
「何のことですか?」
「ありがとうございます」
「いや、だから何を――」
「ずっと」
「…………」
「この時を待っていたんです」
「この時?」
答えはない。
「俺たちがこの屋敷に来たこと、知ってるんですか?」
「…………」
「誰を連れて来たって言ってるんです?」
「…………」
「友達のことですか?」
「…………」
何も答えない。
ただ。
その口元に。
小さな笑みだけが浮かんでいる。
「…………」
気味が悪い。
声は優しい。
俺に敵意があるようにも見えない。
むしろ。
心から喜んでいるようにすら見える。
だからこそ。
怖かった。
「弘」
「……!」
突然。
名前を呼ばれた。
心臓が。
大きく鳴った。
「何で……」
俺は女を見つめる。
「何で俺の名前を知ってるんですか?」
「…………」
答えない。
「誰から聞いたんです?」
「…………」
「やっぱり、俺のこと知ってるんですか?」
「…………」
何を聞いても。
女は答えてくれない。
そして。
「約束も」
「…………」
穏やかな声で。
そう言った。
「最後まで、守ってくださいね」
「約束……?」
また。
その言葉。
前の夢でも。
確か。
同じことを言われた。
「何の約束ですか?」
「…………」
「俺、誰かと約束したんですか?」
「…………」
「あなたと?」
「…………」
「教えてください」
返事はない。
「何の約束なんです?」
「…………」
「俺、そんな約束した覚えないですよ」
「…………」
「いつしたんです?」
答えない。
「何を守ればいいんですか?」
「…………」
「何なんだよ……」
俺は。
だんだん苛立ってきた。
知っているのは。
向こうだけ。
俺の名前も。
俺がここへ来たことも。
俺が何かを連れて来たことも。
そして。
俺自身が知らない。
何かの約束まで。
女は全部知っている。
なのに。
俺が何を聞いても。
何一つ教えてくれない。
「…………」
女は。
そんな俺を見て。
少しも困った様子を見せなかった。
ただ。
静かに微笑んでいる。
そして。
ゆっくりと。
手を上げた。
白い指が。
顔にかかっていた長い黒髪へ触れる。
そっと。
髪をかき上げた。
「…………」
俺は息を呑んだ。
今まで隠れていた顔が。
初めて。
はっきりと見えた。
綺麗だった。
思わず。
言葉を失うくらいに。
整った顔。
白い肌。
長い黒髪。
暗闇の中なのに。
不思議なくらい。
その顔だけはよく見えた。
でも。
綺麗なのに。
やっぱり。
どこか普通じゃない。
何が違うのか。
自分でも分からない。
ただ。
人間を見ているのとは。
少し違うような。
そんな感じがした。
女は。
俺の顔を見ながら。
にっこりと微笑んだ。
そして。
初めて。
俺が聞いていたことの一つだけを。
自分から教えた。
「私の名は、セラと申します」
「……セラ?」
俺は。
その名前を繰り返した。
聞き覚えはない。
でも。
妙に。
耳に残る名前だった。
「セラ……さん?」
今度も。
返事はない。
セラは。
ただ。
微笑んでいる。
その瞬間だった。
「……え?」
暗闇の中に。
小さな光が浮かんだ。
最初は。
一つ。
ほんの小さな。
黄金色の光。
それが。
二つ。
三つ。
少しずつ増えていく。
「何だ……これ」
金色の光が。
セラの周囲に浮かんでいる。
まるで。
暗闇の中を漂う。
無数の小さな光。
「セラさん?」
返事はない。
光は。
さらに増えていく。
十。
二十。
もう。
数えられない。
セラの姿が。
黄金色の光に包まれていく。
「…………」
その光を見た瞬間。
なぜか。
胸の奥がざわついた。
綺麗なのに。
見てはいけないものを。
見ているような。
そんな気がした。
「何なんですか、これ」
当然。
答えはない。
セラは。
最後まで。
ただ。
微笑んでいた。
そして。
光が。
一気に強くなった。
「っ……!」
眩しい。
黄金色の光が。
暗闇を呑み込んでいく。
セラの姿も。
足元も。
何もかも。
見えなくなっていく。
「待って!」
俺は叫んだ。
「まだ聞きたいことが――」
さらに。
光が強くなる。
「セラさん!」
真っ白に近い。
黄金色の光。
何も見えない。
「――っ!」
俺は目を開けた。
「…………」
真っ暗な部屋だった。
「はぁ……はぁ……」
息が荒い。
心臓が。
ものすごい速さで鳴っている。
「…………」
俺はしばらく。
ベッドの上で。
動けなかった。
夢。
今のは。
夢だ。
「……またか」
見慣れない天井。
それを見て。
ようやく。
自分が屋敷に泊まっていることを思い出す。
窓の外は。
まだ暗い。
夜中なのか。
もう明け方なのか。
時間までは分からない。
「…………」
俺は。
ゆっくりと身体を起こした。
目を覚ましたはずなのに。
瞼の裏には。
まだ。
あの光が残っているような気がした。
黄金色の光。
そして。
「……セラ」
気づけば。
その名前を口にしていた。
今までの夢では。
あの女が何者なのか。
何も分からなかった。
でも。
今回は。
一つだけ。
教えてくれた。
名前。
「セラさん……」
もう一度。
小さく呟く。
何を待っていたのか。
何を連れて来たというのか。
誰と会えるというのか。
何の約束を守れと言っているのか。
それは。
何一つ分からないまま。
セラという名前と。
あの黄金色の光だけが。
目を覚ましたあとも。
妙にはっきりと。
頭の中に残っていた。




