第12話 進まない登山計画
結局。
登山の話し合いは、ほとんど進まなかった。
俺たちが囲んでいるのは、白いテーブルクロスの掛けられた長方形のテーブルだった。
左右に四席ずつほど椅子が並び、今いる六人は、わざわざ離れることもなく、普通に話せるくらいの距離にまとまって座っている。
だから。
誰が何を食べているのかも。
誰が何を飲んでいるのかも。
嫌でも目に入った。
「先輩、それ何杯目ですか?」
「んー?」
大野先輩がグラスを持ったまま、俺を見る。
「まだ三杯くらいだろ」
「もう完全に飲んでるじゃないですか」
「細かいなあ、勝田は」
「さっきまで計画立てるって言ってたでしょう」
「立てる立てる」
「いつですか」
「あとで」
「絶対やらないやつじゃないですか」
大野先輩が楽しそうに笑う。
俺はそのまま、残りのみんなを見回した。
「いいですか。大野先輩はもう仕方ないです」
「仕方ないとは何だ」
「もう飲んじゃってるじゃないですか」
「まだ飲めるぞ」
「そういう意味じゃないです!」
みんなが笑う。
「とにかく、これ以上増えたら本当に計画できなくなるからな」
「誰に言ってるの?」
奈緒が聞く。
「全員」
「私たちも?」
「当たり前だろ。まだ藤崎先輩と松田先輩も来てないんだぞ」
俺は高志を見る。
「特にお前」
「俺?」
「俺はお前を信用してるからな」
「何だよ、急に」
「せめて俺とお前の二人くらいは、ちゃんとシラフで先輩たち迎えようぜ」
「ああ、それはそうだな」
高志が頷く。
「登山計画をちゃんと立てて、それから飲もう」
「分かってるって」
「本当だな?」
「本当だよ」
神谷先輩も笑いながら頷いた。
「勝田の言う通りだな」
「ですよね?」
「遅れてくる二人が到着したとき、全員出来上がってたらさすがにひどい」
「ほら!」
俺は高志を見る。
「神谷先輩を見習え」
「俺も同じこと言っただろ」
「信用してるぞ」
「しつこいな」
高志が笑った。
これなら、まだ大丈夫だ。
そう思っていた。
ところが。
しばらくして。
「……神谷先輩」
「ん?」
俺は神谷先輩の手元を見る。
さっきまでなかったグラスが置かれている。
「それ、酒ですよね?」
「一杯だけ」
「さっき俺のこと褒めてましたよね!?」
「褒めたよ」
「『勝田の言う通り』って言いましたよね!?」
「言ったな」
「じゃあ何で飲んでるんですか!」
「大野がうまそうに飲むから」
「理由になってませんよ!」
「一杯くらいなら話し合いできるって」
「大野先輩も同じこと言ってました!」
隣を見る。
その大野先輩は、すっかりいい気分らしい。
「勝田ぁ」
「何ですか」
「まあまあ」
「何がまあまあなんですか!」
奈緒と千夏が笑った。
俺は頭を抱える。
まだだ。
神谷先輩も一杯だけなら、まだ何とかなる。
そう思うことにした。
さらにしばらくして。
「……奈緒」
「何?」
「そのグラス」
「あ」
奈緒が自分の手元を見る。
「ちょっとだけ」
「お前もかよ!」
「だって先輩たち飲んでるし」
「だからって飲むなよ!」
「ほんのちょっとだって」
奈緒は笑いながらワインを口にした。
俺はため息をつき、その隣にいる千夏を見る。
「千夏は?」
「私は飲んでないよ」
「本当だな?」
「本当、本当」
千夏が笑顔で答える。
「私はお酒なんか飲んでないから」
「……」
何だろう。
妙に怪しい。
「千夏」
「何?」
「お前、後ろに何か隠してない?」
「隠してないよ」
「じゃあ手、見せて」
「何で?」
「いいから」
「疑り深いなあ」
千夏が笑いながら、背中に回していた手を前へ出した。
そこにはワイングラスがあった。
「飲んでるじゃん!」
「違うよ」
「何が違うんだよ!」
「これはワイン」
「酒だよ!」
千夏がきょとんとした。
「え?」
「え、じゃないよ。ワインは酒だろ」
「……そうなの?」
「知らないわけないだろ!」
すると、その横で奈緒までワイングラスを持ったまま目を丸くした。
「え、ワインってお酒だったんだ」
「お前まで何言ってんの!?」
「私も知らなかったから飲んじゃった」
「絶対嘘だろ!」
「ほんとだって」
「いや、その飲み方、初めてワイン飲んだやつの飲み方じゃないから!」
俺は千夏のグラスを指さした。
「普通に慣れてるだろ。何回も飲んだことある感じじゃん」
「そんなことないよね?」
千夏が奈緒を見る。
「ね?」
奈緒も千夏を見る。
二人とも妙に真面目な顔をしている。
「……」
「……」
数秒、見つめ合って。
二人同時に吹き出した。
「嘘だけど」
「嘘だね」
「やっぱり嘘じゃねえか!」
二人が声を上げて笑った。
「だって弘、反応面白いんだもん」
「完全に先生みたいなんだもん」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「ごめんごめん」
「全然反省してないだろ!」
奈緒と千夏は笑いながら、またワインを口にする。
もう駄目だ。
こいつらは駄目だ。
俺は諦めて、その場を離れた。
まだ一人いる。
俺が一番信用できるやつが、隣の席に。
「高志」
「……」
高志は俺と目を合わせなかった。
「お前だけは大丈夫だよな?」
「……」
「高志?」
「……すまん」
その一言で。
嫌な予感しかしなかった。
「何が?」
「いや」
「何が『すまん』なんだよ」
高志の前まで行く。
そして。
「……お前」
テーブルの脇に、空になったビールの缶が何本か置かれていた。
「飲んでるじゃねえか!」
「いや、聞けって!」
「何を聞くんだよ!」
「これ見ろよ!」
高志が一本の缶を持ち上げる。
「俺たちが買ってきたビールだぞ!」
「だから何だよ!」
「冷えてたんだよ!」
「は?」
「使用人の人たちが、ちゃんと冷やして持ってきてくれたんだよ!」
「だからって飲むのかよ!」
「だってさあ」
高志が缶を眺める。
「俺たち、これ持ってあの坂登っただろ?」
「登ったよ!」
「重かったよな?」
「重かったよ!」
「途中からお前も持ったよな?」
「持ったよ!」
「だったら飲むしかないだろ」
「何でそうなるんだよ!」
「これは俺たちの苦労の結晶だぞ」
「ただのビールだよ!」
「違う」
高志は妙に真剣な顔をした。
「あの坂道の辛さが、今ここで報われるんだ」
「もっといいことに使え、その言い方!」
みんなが大笑いした。
「しかも、せっかく冷やして持ってきてくれたのに飲まなかったら悪いだろ?」
「使用人さんのせいにするな!」
「俺は気遣いで飲んだんだ」
「何本も?」
「……気遣いが必要だった」
「お前なあ!」
俺は大きくため息をついた。
「俺、お前だけは信用してたのに」
「だから、すまんって」
「二人くらいはシラフで先輩たち迎えようって言ったよな?」
「言った」
「何分前だよ!」
「でもビールが冷えてた」
「それで全部許されると思うな!」
高志が笑う。
俺も怒っているのが馬鹿らしくなってきた。
改めてテーブルを見る。
大野先輩。
神谷先輩。
高志。
奈緒。
千夏。
全員の前に酒がある。
飲んでいないのは。
俺だけだった。
「……もう駄目だ」
「弘も飲めば?」
奈緒が言う。
「飲まない」
「何で?」
「誰か一人くらいまともにしてないと駄目だろ!」
「やっぱり引率の先生じゃん」
千夏が笑う。
「だから誰のせいだよ!」
それから先は、もう完全に崩れた。
食べて。
飲んで。
大学の話をして。
サークルの話をして。
くだらないことで笑う。
久世さんや使用人たちは、空いた皿があればすぐに下げ、新しい料理を運んでくる。
飲み物が減れば、すぐに追加される。
何か頼めば、ほとんど待つことなく用意された。
そんな環境で。
登山計画なんて進むはずがなかった。
「勝田ぁ」
「はい?」
また大野先輩に肩を組まれる。
「お前、本当にいい奴だなあ」
「それ、今日何回目ですか?」
「こんなところ使わせてくれてさあ」
「俺が準備したわけじゃないですって」
「細かいことはいいんだよ」
「近いです、先輩」
「これからもよろしくな、若様」
「若様言うなって!」
笑い声がグレートホールに響く。
「若様」
今度は高志まで呼ぶ。
「お前は黙れ」
「何で俺だけ?」
「一番信用してたからだよ!」
「謝っただろ」
「謝りながら飲み続けてるじゃねえか!」
「もったいないだろ」
「まだ言うか!」
また笑い声が上がった。
さっきまでテーブルの上に広げていた登山の候補。
確認しかけていた日程。
それらはいつの間にか端へ追いやられていた。
代わりに並んでいるのは。
料理。
酒。
空になったグラス。
そして、高志と俺が苦労して運んできたビールの空き缶。
もうどう見ても。
ただの宴会だった。
「……俺たち、何しに来たんだっけ」
俺が呟くと、高志が即答した。
「飲み会」
「違う」
「屋敷見学」
「違う」
「旅行?」
「登山計画!」
「ああ、そうだった」
「本気で忘れてただろ!」
また笑い声が上がった。
俺は大きくため息をつく。
そのとき。
グレートホールの扉が開いた。
「若様」
久世さんが入ってくる。
「はい?」
「先ほど、お連れのお二人が到着されました」
「あ」
そうだった。
まだ二人来ていない。
「藤崎先輩と松田先輩だ」
高志も思い出したらしい。
「お前、忘れてただろ」
「忘れてない」
「今の顔は忘れてた」
「気のせいだ」
その直後。
「え、何ここ?」
聞き覚えのある声がした。
扉の向こうから藤崎彩香先輩が入ってくる。
その後ろには松田圭介先輩もいた。
二人とも。
まずグレートホールを見て。
次に、テーブルに並んだ大量の料理と酒を見て。
最後に、すっかり宴会になっている俺たちを見た。
「……ちょっと待て」
松田先輩が言った。
「もう宴会始まってんの?」
「はい」
高志が笑顔で答える。
「何でお前が堂々と答えるんだよ」
俺が言う。
藤崎先輩が首を傾げた。
「登山の話は?」
「まだです」
高志が答える。
「だから何でお前が答えるんだよ!」
「何してんの、お前ら」
松田先輩が呆れたように言った。
俺は深くため息をついた。
それ。
俺がずっと言ってたんですけど。




