<月の住民>
店を出ると、西へ傾き始めた人工太陽が街を柔らかな橙色に染めていた。
昼間の賑わいは少し落ち着き、仕事帰りや学校帰りのウサギたちが家路を急ぐ時間らしい。
ぼくは急いで帰ることはせず、取材で得た知識を確かめるように街を歩くことにした。
花屋の店主が語っていた「花の文化」。
その話を聞いた後では、街の景色そのものが違って見える。
ほんの数時間前まで何気なく通り過ぎていた光景に、一つひとつ意味があることに気付くのだ。
小さな公園のベンチでは、三匹の老うさぎが楽しそうに談笑していた。
手にしているのは、お菓子でも果物でもない。
色鮮やかな花束だった。
器用に花びらを一枚ずつちぎっては口へ運び、お茶請けでも食べるように味わっている。
「今年のルナリリーは甘いねぇ。」
「去年は酸っぱかったからのう。」
「わしは若い頃、このくらい苦い方が好きじゃった。」
「年を取ると甘い方がええんじゃ。」
三匹は顔を見合わせて笑い合う。
その笑顔は、公園で煎餅をつまみながら世間話をする老人たちと何も変わらない。
違うのは、手にしているものがお菓子ではなく花だということだけだった。
なるほど。
この世界では、花は特別な日に贈るものだけではない。
毎日のおやつでもあり、会話を楽しむためのお茶菓子でもあるのだ。
さらに歩くと、小学校帰りらしい子うさぎたちが元気よく走ってきた。
ランドセルによく似たリュックを背負い、耳をぴょこぴょこ揺らしながら楽しそうに話している。
「今日の植物学の実習、おもしろかったね!」
「先生が毒花と食べられる花の見分け方教えてくれた!」
「ぼく全部当てられたよ!」
「すごーい!帰ったらママに教えてあげる!」
「うちは今日、花シチューだって!」
「いいなぁ!」
子どもたちは笑いながら角を曲がっていった。
植物学。
地球なら専門家が学ぶような知識が、この世界では小学生の授業になっている。
それだけ植物が生活と密接に結び付いているのだろう。
ふと視線を移すと、配送業者らしい二匹のうさぎが通りを歩いてきた。
重そうな荷物を運んでいるはずなのに、その足取りは軽い。
理由はすぐに分かった。
荷物は台車ではなく、数十センチ宙に浮く反重力カートに積まれていたのだ。
積まれているのは巨大な培養土の袋。
側面には、
『植物園認証』
『有機培養土』
と印字されている。
「今日はルナガーデンから新種が届くらしいぞ。」
「また温室を一つ空けなきゃならんな。」
「今度の品種は香りが三日続くらしい。」
そんな会話を交わしながら、二匹は慣れた様子で商店街の奥へ消えていく。
植物が産業であり、文化であり、食料でもある。
この世界では、すべてが植物を中心に回っているようだった。
商店街へ入ると、さらに生活の匂いが濃くなる。
パン屋には草パンを買い求める行列。
花屋だけではない。
青果店にも、八百屋にも、総菜屋にも、食堂にも食用の花が混ざって並んでいる。
仕事帰りらしい会社員が夕食用に加工された花を買っている。
花を選ぶ姿は、地球で肉や魚を選ぶ光景と変わらない。
少し先では、小さな女の子が母親の服を引っ張っていた。
「ママ、この花きれーい!」
「今日はお祝いじゃないから一本だけね。」
「えー!」
母親は笑いながら一本だけ花を買い、その場で一枚花びらをちぎって娘の口へ入れてあげた。
「甘ーい!」
女の子の耳が嬉しそうに跳ねる。
その様子を見て、ぼくは自然と笑みがこぼれた。
月。
宇宙。
未来都市。
そんな言葉から想像する無機質な世界とはまるで違う。
ここには笑いがあり、学校があり、仕事があり、家族がいる。
夕暮れには夕飯の支度をして、子どもは学校で習ったことを親に話し、老人は公園で昔話に花を咲かせる。
ここは確かに、人々が生きている「街」だった。
気付けば、ぼくは自然と部屋への道を歩いていた。
住宅街へ入ると、家々の窓から暖かな灯りが漏れている。
どこからか香ばしいパンの匂いと、煮込みを作っているような良い匂いが風に乗って漂ってきた。
月なのに。
宇宙なのに。
ここには確かな生活がある。
それが、なぜだか胸を温かくした。
と同時に、少し胸を締め付けるような気持ちもした。
夜、自室へ戻ると、シャワーで一日の汗を流し、柔らかなベッドへ身体を預けた。
静かな部屋の天井を見上げながら、今日一日の出来事をゆっくりと思い返す。
目覚めを告げたタブレット。
記者として蘇った記憶。
花屋で知った美しく奥深い文化。
口の中で弾けた花びらの甘さ。
そして、カフェで交わした少女との何気ない会話。
一つひとつは小さな出来事だ。
だが、そのどれもが少しずつ、この世界を「知らない場所」から「自分が生きる場所」へ変えてくれていた。
ふわふわの毛並みの手(前足)を見つめる。
昨日までは夢の中を歩いているような頼りなさがあった。
しかし今は違う。
取材の手順も、街の歩き方も、カフェで交わす何気ない挨拶も、
この世界で積み重ねてきた「自分」の記憶として自然に息づいている。
タブレットを開き、今日撮影した写真と取材メモを見返す。
指先は迷うことなくキーボードの上を滑り、言葉が次々と文章へ変わっていく。
記者としての感覚が、完全に身体へ戻ってきていた。
――きっと、いい記事が書ける。
そんな確かな手応えを胸に抱きながら、ぼくは静かに目を閉じた。
明日は、どんな景色に出会えるのだろう。
そう思うと、次の朝が少しだけ待ち遠しかった。
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