<小指の約束>
ミア編(全4話です)
ミアが感じていたことのスピンオフです。
その日は、いつもと変わらない休日だった。
彼は私の近くに座っていた。
いつものように、いろいろな話をしている。
私は、
「はいはい、聞いてあげるわ」
そんな気持ちで聞いていた。
ところが。
ふと。
何かがおかしいと感じた。
彼の声。
表情。
空気。
いつもと違う。
私は身体を起こした。
彼が私を見る。
「…ごめんな」
その声を聞いた瞬間。
胸の奥がざわついた。
彼は私の頭を撫でた。
耳にも触れた。
いつもの撫で方なのに。
いつもとは違う。
「ぼくは、月に行くことになったんだ」
月。
その言葉を聞いて、私は思い出した。
彼がずっと話していた夢。
「ずっと夢だったプロジェクトなんだけど…」
彼は笑おうとしていた。
でも、笑えていなかった。
「いつ帰れるか、分からないんだ」
私は彼を見つめた。
意味は分かる。
月へ行く。
長い間、帰ってこない。
もしかしたら。
帰ってこない。
そんなことを考えた瞬間、身体が冷たくなった。
待って。
私を置いていくの?
一緒に行く。
私も連れていって。
お願い。
置いていかないで。
私は何度も彼の顔を見た。
けれど、人間の言葉を話すことはできない。
「もしかしたら…君の最期に、そばにいてあげられないかもしれない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
嫌。
そんなの嫌。
私はあなたと一緒にいたい。
ずっと。
ずっと一緒にいたい。
彼は少し黙ってから、私の前に指を差し出した。
小指。
「約束しよう」
約束?
私は彼の指を見る。
「今度の人生も、一緒に過ごそう」
その言葉の意味を、私は完全には理解できなかった。
でも。
彼が、とても真剣なのは分かった。
「ぼくが月で何をできるのかは分からない。君がどこまで生きるのかも分からない」
それでも。
「次の人生なら、また会えるかもしれないだろ?」
彼は笑った。
少し泣きそうな顔だった。
「そのときは、また一緒に暮らそう」
彼の小指が、私の前足の下へ差し込まれる。
「指切りげんまんだ」
そんなもの。
うさぎの私に分かるはずがない。
でも。
彼が私に何かを託していることだけは分かった。
私は前足に力を込めた。
ぎゅっと。
彼の指を押さえる。
絶対。
約束する。
あなたが戻ってこなくても。
私は待つ。
「約束、だからな」
――うん。
やくそく。
声帯がないから、人間の言葉を声にすることはできない。
それでも。
私の想いは、きっと伝わる。
そう信じた。
あの日。
私たち二人だけの、大切な約束が交わされた。
それから数日。
家の中が、どんどん片付いていった。
荷物がなくなる。
棚が空になる。
彼が使っていたものが、少しずつ消えていく。
私は、そのたびに不安になった。
私の居場所まで、なくなっていくような気がした。
そして。
出発の朝が来た。
いつもと違う。
そのことは、すぐに分かった。
彼は荷物を持っていた。
何度も私を見る。
私は走り回った。
足元を行ったり来たりした。
行かないで。
お願い。
一緒にいて。
寂しい。
嫌。
悲しい。
いろんな感情が、胸の中から溢れてくる。
彼はしゃがみ込んだ。
「大丈夫だよ」
その声が、優しかった。
「いってくるね」
私は彼を見た。
行かないで。
そう叫びたかった。
でも。
彼は立ち上がった。
そして。
出ていった。
ドアが閉まった。
私はしばらく、その場から動けなかった。
やがて。
誰もいなくなった部屋に、彼の匂いだけが残っていることに気づいた。
私はその匂いを探した。
でも。
彼はいなかった。
胸の中が、空っぽになった。
きょうだいたちと引き離されたときとは違う。
あのときは、身体の一部を失ったようだった。
今は。
身体の半分を持っていかれたようだった。
私は彼の友人の家へ移された。
丁寧に世話をしてくれた。
ご飯もくれる。
声もかけてくれる。
優しい人だった。
でも。
私は、ほとんど何も理解できなかった。
彼の声なら分かる。
彼の足音なら分かる。
彼の匂いなら分かる。
でも。
違う。
ドアが開く。
違う。
足音がする。
違う。
人影が見える。
違う。
毎日。
毎日。
期待して。
落胆する。
「違う」その繰り返しだった。
私は、彼を待っていた。
約束したから。
きっと帰ってくる。
きっと。
だから。
私は生きた。
けれど。
私はもう十歳だった。
身体は、若くなかった。
食欲が落ちていく。
身体に力が入らない。
それでも。
私は待った。
彼との約束だけを胸に。
そして。
ある日。
私は、自分の身体が静かになっていくのを感じた。
怖くはなかった。
ただ。
最後に、彼に会いたかった。
それだけが心残りだった。
でも。
約束した。
また会える。
次の人生で。
だから。
私は静かに目を閉じた。
地球での一生を終える前に。
最後まで、彼を待ちながら。




