<今日から家族>
ミア編(全4話です)
ミアが感じていたことのスピンオフです。
「今日から家族だ。よろしくな」
それが、私と彼の最初の会話だった。
もちろん、そのときの私は、人間の言葉を話すことなんてできなかった。
だから、彼の言葉を聞いただけ。
私はただ、ケージの隅で身体を小さく丸めていた。
怖かった。
人間が怖かった。
研究室の白い壁も、消毒液の匂いも、金属製の器具も。
そして――。
一緒に暮らしていた、きょうだいたちがいなくなったことも。
私はエキゾチックアニマル専門の研究室で、何羽ものうさぎたちと一緒に暮らしていた。
そこでは、私たちは「研究対象」だった。
毎日、獣医師のたまごたちがやってきて、体重を測ったり、食事量を確認したり、身体の状態を記録したりする。
私は、それが普通なのだと思っていた。
生まれてからずっと、そういう環境だったから。
けれど、ある日の実験で、私だけが大きく体調を崩した。
食べられない。
動けない。
身体に力が入らない。
周囲が慌ただしくなったことだけは覚えている。
その後、私は研究対象から外された。
「この子は、もう実験には使えない」
そう言われた。
その言葉の意味を、当時の私は正確には理解していなかった。
ただ。
きょうだいたちと一緒にいられなくなった。
そのことだけが、悲しかった。
そんな私の前に現れたのが、彼だった。
まだ若い獣医師のたまご。
研究室に入ったばかりで、どこか頼りなさそうな人。
それなのに。
彼は私を見て、少し考えたあとに言った。
「今日から家族だ。よろしくな」
家族。
その言葉を、私は知らなかった。
けれど。
その響きだけは、不思議と嫌ではなかった。
彼の家は、静かだった。
研究室とはまるで違う。
白い壁。
柔らかなカーペット。
窓から入ってくる陽射し。
そして、私のために用意された小さなスペース。
最初の頃、私はずっと警戒していた。
彼が近づけば逃げる。
手を伸ばされれば身体を縮める。
抱き上げようとされれば、必死になって逃げた。
人間は怖い。
そう思っていた。
それに。
私はきょうだいたちと引き離されたばかりだった。
どうして自分だけなのか。
どうして私だけ、ここにいるのか。
そんな気持ちが、胸の奥にずっと残っていた。
だから、彼に心を開くつもりなんてなかった。
最初のうちは。
「今日はこんなことがあったんだ」
彼は毎日、私に話しかけた。
「研究室でまた失敗しちゃってさ」
そんな話。
「先生に怒られた」
そんな話。
「今日は疲れたなぁ」
そんな話。
私は返事をしない。
ただ、じっと聞いている。
それでも彼は話しかけてくる。
最初は、私に気に入られたいのだと思っていた。
「ほら、今日のおやつ」
「これ好きだろ?」
「…無視か」
そんなふうに笑っている。
私は、無視していた。
…つもりだった。
でも、いつの間にか。
彼が帰ってくる時間になると、耳を澄ますようになった。
鍵の音。
玄関の音。
足音。
そして、
「ただいま」
という声。
その声を聞くと、なぜか安心した。
彼は、私を自由にしてくれた。
無理に触ろうとしない。
無理に抱こうとしない。
私が逃げれば、それ以上追ってこない。
ただ、そこにいる。
それが、少しずつ心地よくなっていった。
いつの間にか。
私は彼の近くで眠るようになった。
彼がソファに座れば、その足元へ。
彼が机に向かえば、その近くへ。
彼がテレビを見ていれば、少し離れた場所から一緒に見る。
そんな毎日。
私はいつしか、ここが自分の居場所なのだと思うようになっていた。
彼には、たくさんの話があった。
仕事の話。
研究の話。
記事を書く仕事の話。
そして、夢の話。
「いつか月へ行ってみたいんだ」
月。
その言葉は、何度も聞いた。
彼は宇宙の話が好きだった。
月面開発。
宇宙医学。
動物が低重力環境でどうなるのか。
人間だけではない。
いつか、動物も宇宙で暮らせる日が来るかもしれない。
そんな話を、彼は楽しそうにしていた。
私はいつも聞いていた。
もちろん、意味を全部理解していたわけではない。
でも。
彼が楽しそうに話していることだけは分かった。
だから私は、彼の話を聞くのが好きだった。
仕事で嫌なことがあった日には、愚痴も聞いた。
「今日さ、仕事で無茶言われてさ」
はいはい。
また始まった。
「締め切りが明日なんだよ」
それは大変ね。
「でも、やるしかないんだよなぁ」
頑張りなさい。
私はそんな気持ちで、彼の足元に座っていた。
彼にとって、私は家族だった。
そして。
私にとっても、彼は家族だった。
いや。それだけではない。
私は彼のことを、一番よく分かっている。
彼がどんな顔をするときに疲れているのか。
どんな声をするときに嬉しいのか。
何を食べると機嫌がよくなるのか。
どんなときに一人になりたいのか。
全部。
私だけが知っている。
…そう思っていた。
たまに、彼の友人が遊びに来た。
彼のお母さんが来ることもあった。
私は少し離れたところから様子を見ていた。
最初は、彼が私以外の誰かと楽しそうに話していることが気に入らなかった。
私をほったらかしにして。
ひどい。
そう思ったこともある。
でも、そのうちに慣れた。
彼の友人の顔も覚えた。
お母さんの声も覚えた。
彼にとって大切な人たちなのだと分かったから。
私は案外、心が広いのだ。
…たぶん。
ただし。
別のうさぎの匂いをつけて帰ってきたときだけは別だった。
「おいおい、なんで怒ってるんだ?」
知らない匂い。
私は思いきり彼に噛みついた。
「痛っ!」
知らない子と遊んできたのね。
許さない。
一度だけ、若い女性が家に来たこともあった。
私は、その女性を見た瞬間。
ダンッ!
思いきり足を鳴らした。
彼女は驚いていた。
それ以来、その女性は来なくなった。
……そう。
私は心が広い。
たぶん。
だって。
私は彼のことを一番分かっている。
彼の家族で。
彼の一番近くにいる存在。
最期まで、彼と一緒にいる。
そのつもりだった。
あの日までは。




