<待っていた彼女>
そして。
あの事故が起きた。
アーク・ノヴァの船体を襲った爆発。
赤く点滅する警報。
燃え上がる通路。
崩れ落ちる船体。
そして、緊急脱出ポッド。
ぼくは一人、暗黒の宇宙へ放り出された。
月の引力に捕まり、制御不能となったポッドは、灰色の月へ向かって落下していく。
酸素は、ほとんど残っていなかった。
もう助からない。
そう思った。
意識が薄れていく。
呼吸が苦しい。
手足の感覚がない。
けれど。
最後の瞬間。
ポッドを、奇妙な光が包み込んだ。
白い。
どこまでも白い光。
それは、目を閉じているのか、開いているのかすら分からなくなるほど眩しかった。
次の瞬間。
ぼくは、見知らぬ場所に立っていた。
いや。
「いた」という表現すら正しくない。
身体がない。
足もない。
重力もない。
上下さえ存在しない。
ただ、果てしない純白の空間だけが広がっている。
音もない。
風もない。
温度さえ感じられない。
それなのに、不思議と恐怖はなかった。
「ここは…?」
声を出したつもりだった。
けれど、声は出なかった。
その代わり、自分の意識だけが確かに存在していることが分かった。
そして。
自分が死んだ。
そのことだけは、なぜか理解できた。
そのときだった。
「ふふ…おもしろきこと」
声がした。
鈴を転がしたような、美しい声。
ぼくは振り向いた。
そこに、一人の女性がいた。
長い白い衣。
絹のような髪。
そして――。
長くしなやかなうさぎの耳。
赤い瞳。
人間の女性とは思えないほど美しく、それでいて、不思議な親しみを感じさせる姿だった。
彼女の周囲には、地球と月を模した二つの球体が浮かんでいた。
指先を動かすたび、それらがゆっくりと軌道を変えていく。
まるで本物の天体を操っているようだった。
「月と、うさぎと、地球」
女性は、楽しそうに微笑んだ。
「三つの縁を、これほど強く結んでおる者がおるとはの」
ぼくには、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、目の前にいる存在が、普通の人間ではないことだけは理解できた。
「青き星の獣医。そして、記録者」
その言葉に、胸の奥が震えた。
獣医。
記者。
それは、間違いなく自分自身のことだった。
「お前の最期の願いは、我にも届いた」
彼女は、ぼくの前へ手を差し伸べた。
「約束を果たしたいのであろう?」
その瞬間。
脳裏に、あの小さなうさぎの姿が浮かんだ。
黒い瞳。
小さな耳。
柔らかな毛。
そして、ぼくの小指に乗った小さな前足。
胸の奥が締めつけられる。
「…会いたい」
今度は、声になった。
「もう一度…会いたい」
女神は、優しく微笑んだ。
「ならば、会えばよい」
あまりにも簡単に言われて、ぼくは目を見開いた。
「ただし――」
女神の声が、少しだけ厳しくなる。
「そのためには、お前自身の足で辿り着かねばならぬ」
「自分で…?」
「そうじゃ」
女神は頷いた。
「我が世では、魂は巡る。命が終われば、それですべてが消えるわけではない」
その言葉に、ぼくは息を呑んだ。
「お前の魂もまた、月へ渡る」
光が、ぼくの身体を包み始めた。
いや。
身体など、すでにないはずだった。
それなのに、確かに何かが変わっていく。
人間の手が消える。
足の形が変わる。
身体を柔らかな毛が覆っていく。
「お前は、新たな命として、この月世界で生きることになる」
「…ぼくが?」
「そうじゃ」
女神は笑った。
「そして、お前と強く結ばれた小さな魂も、すでにこの世界にある」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に温かなものが灯った。
あの子。
もう一度、会える。
その可能性だけが、急速に遠ざかっていく意識を繋ぎ止めていた。
けれど。
「記憶は封じよう」
「…え?」
思わず聞き返した。
「なぜ?」
女神は、どこか慈しむような表情でぼくを見つめた。
「答えを与えられた人生は、約束を果たしたとは言えぬからじゃ」
「……」
「自ら探し、自ら迷い、自ら辿り着くのじゃ」
光が、さらに強くなる。
「それこそが、新しい人生なのだから」
意識が薄れていく。
目の前の女神の姿も、白い空間も、少しずつ遠ざかっていった。
「待って!」
最後に、どうしても聞いておきたいことがあった。
「ぼくは本当に、あの子に、また会えるんだよな?」
女神は、静かに笑った。
「縁が消えぬ限り、必ず巡り合う」
その言葉だけが、最後まで鮮明に響いた。
「行くがよい」
そして――。
「お前と、あの小さな魂の縁が、再び結ばれる場所へ」
光が、すべてを包み込む。
「そして我が世で、その縁をもとに、お前自身の使命を果たせ」
その声を最後に。
ぼくの意識は、深い闇の中へ沈んでいった。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/kRZB49PqqaI?feature=share




