<地球の約束>
記憶の奔流は、ぼくを遠い過去へと運んでいた。
暗闇の向こうに、光が見える。
最初はぼんやりとした光だった。
けれど、それは少しずつ輪郭を持ち始める。
白い壁。
大きな窓。
午後の柔らかな日差し。
そして――。
クッションの上でくつろいでいる、小さな毛玉。
懐かしい。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
これは、ぼくがかつて暮らしていた家だ。
地球。
まだ人間だった頃の、ぼくの家。
窓から差し込む陽射しの中で、一羽のうさぎが気持ちよさそうに横になっている。
ネザーランドドワーフ。
小さな身体。
うさぎの中では短い耳。
黒くて丸い瞳。
ぼくが10年もの間、一緒に暮らしてきた女の子だった。
「…ただいま」
記憶の中のぼくが、仕事から帰ってくる。
すると彼女は顔を上げた。
鼻をひくひくと動かし、こちらを見つめる。
それだけだった。
走って飛びついてくるわけでもない。
犬のように尻尾を振るわけでもない。
ただ、じっとこちらを見る。
そして、しばらくすると、何事もなかったようにクッションの上で横になっている。
「反応、薄いな」
そう言いながら、ぼくは笑っていた。
それが、いつもの光景だった。
けれど。
その何気ない時間が、ぼくにとってどれほど大切だったのか。
今なら分かる。
ぼくは獣医師だった。
これまで、数えきれないほど多くの動物の命と向き合ってきた。
病気になった動物。
事故に遭った動物。
飼い主に見守られながら、静かに息を引き取っていった動物。
その中でも、ぼくの専門領域はエキゾチックアニマル、とりわけ「うさぎ」だった。
命を救うこと。
痛みを減らすこと。
少しでも長く、穏やかに生きられるようにすること。
それが自分の仕事だと思っていた。
けれど、家に帰れば、ぼくはただの飼い主だった。
彼女の健康を気にして。
食欲が少し落ちただけで心配して。
いつもと違う場所で寝ているだけで「大丈夫か?」と声をかける。
獣医師としてではなく。
一人の人間として。
彼女を愛していた。
だからこそ。
あの日、月へ行くことが決まったとき、ぼくは喜びだけではいられなかった。
人類が月面に本格的な生活圏を築く。
その壮大な計画。
――『ルナ・フロンティア計画』。
そのメンバーに選ばれた。
長年、宇宙開発の記事を書き続けてきた記者としては、これ以上ないほどのチャンスだった。
しかも、ぼくは獣医師でもある。
低重力環境が生物の身体に与える影響。
閉鎖空間での動物のストレス。
月面での生態系。
調査すべきことは山ほどあった。
夢だった。
本当に、夢だった。
けれど――。
その夢には、大きな代償があった。
「…長いんだよな」
出発を控えたある夜。
ぼくは彼女を膝の上に乗せながら、ぽつりと呟いた。
月への長期滞在。
帰還時期は明確には決まっていない。
そして何より、宇宙開発には常に危険がつきまとう。
事故が起これば、帰ってこられない可能性だってある。
彼女は10歳だった。
うさぎとしては、決して若くない。
ぼくが月へ行っている間に寿命を迎えてしまう可能性は十分にあった。
いや。
むしろ、その可能性のほうが高かった。
「ごめんな」
ぼくは彼女の頭を撫でた。
柔らかな毛。
小さな耳。
干し草の優しい匂い。
それらすべてが、今にも消えてしまいそうな気がした。
「ぼく、月に行くことになったんだ」
彼女は黙っている。
「ずっと夢だったプロジェクトなんだけど…」
言葉が詰まった。
「いつ帰れるか、分からないんだ」
自分で言っておきながら、胸が痛くなった。
「もしかしたら…君の最期に、そばにいてあげられないかもしれない」
彼女の黒い瞳が、まっすぐぼくを見つめていた。
言葉が通じているのか。
そんなことは分からない。
けれど、獣医師として、ぼくには一つの信念があった。
気持ちを込めて話しかければ、その想いは必ず何かしらの形で伝わる。
言葉そのものではなくても。
声の温度や、触れ方や、匂いや、表情。
動物は、そういうものを敏感に感じ取っている。
「だから…」
ぼくは彼女の前に指を差し出した。
右手の小指。
「約束しよう」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「今度の人生も、一緒に過ごそう」
彼女が首を傾げる。
「ぼくが月で何をできるのかは分からない。君がどこまで生きるのかも分からない」
それでも。
「次の人生なら、また会えるかもしれないだろ?」
ぼくは笑った。
少しだけ、泣きそうになりながら。
「そのときは、また一緒に暮らそう」
彼女の小さな前足の下に、ぼくの小指をそっと差し入れる。
「指切りげんまんだ」
そんなもの、うさぎには意味がない。
分かっている。
それでも――。
「約束、だからな」
彼女はしばらくぼくの指を見つめていた。
そして。
ほんの少しだけ前足に力を込めた。
喉の奥から、小さな音が聞こえる。
口元が、もぐもぐと動いている。
その瞬間。
ぼくの耳元で、確かに声がした。
『うん。やくそく』
「……え?」
思わず顔を上げる。
けれど、彼女は何も言わない。
ただ、いつものようにぼくを見つめている。
空耳だったのだろう。
きっとそうだ。
別れを怖がっていた自分が作り出した、都合のいい幻聴。
そう思った。
それでも。
あの瞬間、ぼくたちの間には、不思議なほど確かな何かがあった。
言葉では説明できない。
けれど、確かに伝わった。
――約束。
数日後。
信頼できる友人に留守の間のことと、彼女を頼んだ。
出発の朝。
ぼくの足元をちょこちょこと歩き回り、最後には前足をぼくの手に乗せた。
「大丈夫だよ」
ぼくは笑っていた。
「いってくるね」
そう言って、最後は振り返らなかった。
振り返ったら、きっと行けなくなると思ったからだ。
そして、ぼくは宇宙船『アーク・ノヴァ』に乗り込んだ。
それが、地球での最後の日だった。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/kRZB49PqqaI?feature=share




