<約束の相手>
記憶の中には、小さな身体がある。
ふわふわした毛。
短く、ぴんと立った耳。
手のひらに伝わってくる、温かな体温。
抱き上げたときの、かすかな重み。
鼻を近づけたときに感じる、干し草と、あの子自身の匂い。
それだけは、はっきりと分かる。
けれど――。
顔が思い出せない。
名前も出てこない。
どんな表情をしていたのかも、もう分からない。
まるで、そこだけが霧に覆われているようだった。
ただ一つ。
あの日、交わした言葉だけが残っている。
――今度の人生も、一緒に過ごそう。
ぼくが、そう言った。
言ったのは、間違いなく自分だった。
あの子の小さな前足に、自分の小指を重ねて。
約束だと、そう伝えた。
けれど。
相手は誰だった?
「…うーん…分からない」
ぼくは額に手を当てた。
記憶の中に、確かに存在している。
大切だった。
10年もの間、一緒に暮らしていた。
ぼくにとって、誰よりも大切な家族だった。
それなのに。
その顔だけが、どうしても思い出せない。
「どうして……」
胸の奥が苦しくなる。
ここまで来た。
人間だった頃の自分も。
宇宙船で何が起きたのかも。
そして、自分がこの月世界へ来た理由も。
すべて分かった。
それなのに。
最後の一番大切な部分だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
そのときだった。
隣にいたミアが、静かに口を開いた。
「ここのうさぎはね」
「…え?」
ぼくは顔を上げた。
ミアは、まっすぐにぼくを見ていた。
その大きな瞳には、さっきまで流れていた涙の跡が残っている。
けれど、その表情は不思議なほど穏やかだった。
「みんな、前世の記憶があるの」
「前世?」
「うん」
ミアは、小さく頷いた。
「地球でうさぎとして生きて、寿命を全うした魂は、月へ還ってくるの」
「……」
「そして、この世界で新しい身体をもらって、もう一度生きるの」
静かな声だった。
まるで、ずっと昔から知っていた当たり前のことを説明するように。
「それが、この月世界の理なの」
心臓が跳ねた。
――そうだった。
だからだったのか。
初めて彼女と出会ったとき。
なぜか、懐かしかった。
初対面のはずなのに。
初めて会った相手とは思えなかった。
カフェで彼女が笑いかけてくれたときも。
行政シティで偶然再会したときも。
一緒に街を歩きながら話したときも。
ずっと感じていた。
言葉では説明できない、奇妙な安心感。
初めて会った相手なのに、ずっと前から知っているような感覚。
まるで、長い旅から帰ってきた自分を、ずっと待っていてくれた誰かと再会したような――。
「あれは…」
ぼくは、息を呑んだ。
「あれは、そういうことだったのか?」
ミアは何も答えない。
ただ、静かにぼくを見つめている。
その瞳が、少しだけ潤んだ。
頭の中で、いくつもの光景が蘇っていく。
出発の朝。
自宅のリビング。
床の上を歩き回る、小さな身体。
ぼくの足元までやってきて。
前足を、ぼくの手に乗せた。
『行ってくるね』
そう言って、ぼくはあの子を撫でた。
そして、小さな前足に、自分の小指を重ねた。
――今度の人生も、一緒に過ごそう。
あのときの約束。
その約束をした相手。
そして――。
目の前にいる彼女。
長い耳。
柔らかな毛並み。
大きな瞳。
笑ったときに少しだけ細くなる目元。
カフェで見せてくれた、あの優しい笑顔。
役所で向かい合ったときに感じた、言葉にならない懐かしさ。
全部が。
一つずつ。
一本の線へと繋がっていく。
「まさか…」
声が震えた。
ぼくは、目の前のミアを見つめた。
「キミは…」
喉が詰まる。
「ぼくの…」
その先を、どうしても言葉にできない。
もし違っていたら。
もし、自分の都合のいい思い込みだったら。
そう考えると、怖かった。
けれど。
ミアは逃げなかった。
ただ、ぼくの目をまっすぐに見つめている。
やがて、彼女は涙を拭った。
そして、花が咲くように、ふわりと笑った。
それは、これまで見たどんな笑顔よりも優しかった。
どこか懐かしくて。
ずっと待っていた人に、ようやく再会できたような。
そんな笑顔だった。
「うん」
ミアが頷く。
「うん。やっと…見つけてくれた」
「……」
「ずっと待ってた」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
ずっと。
待っていた。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
けれど。
ぼくは、そこで小さく首を振った。
――違う。
これは、思い出したんじゃない。
ぼくは今、過去の記憶を鮮明に取り戻したわけではない。
あの子の顔を、完全に思い出したわけでもない。
名前を思い出したわけでもない。
なのに。
分かる。
目の前にいる彼女を見ているだけで、胸の奥にある何かが、確かに答えを告げている。
これは記憶じゃない。
もっと深いところに残っているもの。
言葉よりも。
映像よりも。
理屈よりも確かなもの。
魂の奥底に残っていた、感覚だった。
ずっと昔。
地球で、ぼくの帰りを待っていた――。
あの小さな家族。
その魂が、今。
目の前にいる。
「…ミアちゃん」
「うん」
「キミは…ぼくの――」
最後まで言えなかった。
けれど。
もう、答えは分かっていた。
ミアは、そんなぼくを見て、少しだけ笑った。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
ぼくの手に、小さな手を重ねた。
その瞬間。
胸の奥が、強く締めつけられた。
――知っている。
この感触を。
この温かさを。
この小さな重みを。
ずっと。
「…ああ」
思わず声が漏れた。
「やっぱり…」
ミアの瞳から、また涙がこぼれた。
でも、今度の涙は悲しみではなかった。
嬉しさをこらえきれないような、柔らかな涙だった。
彼女は、ぼくの小指に自分の小指をそっと重ね直す。
あの日と同じように。
「約束」
たった一言。
それだけだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間。
すべてが繋がった。
地球で交わした約束。
宇宙船で最後に願ったこと。
ポケベルに残された『やくそく』と『みつけて』。
そして。
月世界で出会った、彼女。
ぼくは、ようやく理解した。
あのメッセージは、場所を示していたわけじゃない。
誰かを探すための、最後の願いだった。
そして、その「誰か」は――。
最初から、ぼくのすぐそばにいた。
ただ、ぼくが気づけなかっただけだった。
透明なドームの向こうで、遠い地球が静かに輝いている。
かつてぼくが生まれた星。
そして。
あの子と約束を交わした星。
その星を見つめながら、ぼくはミアの手を握った。
今度は、もう、離さない。
失った時間を取り戻すことはできない。
人間だった頃の10年も。
別れの朝から今日までの時間も。
それでも。
約束は、終わっていなかった。
あの日、小さな前足と重ねた小指の約束は。
時を越え。
星を越え。
そして今、もう一度ここで結ばれた。
ぼくは、ようやく確信していた。
思い出したからではない。
誰かに教えられたからでもない。
目の前にいる彼女の存在そのものが、答えだった。
「…帰ってきたんだな」
小さく呟く。
ミアは、涙を浮かべながら笑った。
「うん」
月世界の柔らかな光が、二人の間に降り注いでいた。
遠い地球が、透明なドームの向こうで静かに輝いている。
かつてぼくが生まれた星。
そして。
約束を残してきた星。
ぼくはミアの手を、今度は離さなかった。
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