<ポケベルの暗号>
――――。
「…だいじょうぶ?」
誰かの声がする。
遠くから聞こえてくるような、かすかな声だった。
「ねぇ、だいじょうぶ!?」
今度は、はっきり聞こえた。
その声は、泣いていた。
ぼくは重たいまぶたをゆっくりと開いた。
「……」
最初に視界へ飛び込んできたのは、青い空ではなかった。
色とりどりの花。
透明なドーム越しに差し込む、月世界の柔らかな光。
そして――。
「よかった…!」
大きな瞳。
頬を涙で濡らした、ミアの顔。
「突然倒れちゃうから…私、どうしようかと…」
声を震わせながら、彼女がぼくの顔を覗き込んでいる。
「…ミアちゃん?」
「うん…」
ミアは何度も頷いた。
「私、ここにいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議な安心感が胸の奥へ広がった。
頭の下に、柔らかな感触がある。
どうやら、ぼくは彼女の膝を枕にして倒れていたらしい。
「…ありがとう」
ゆっくりと身体を起こす。
ミアが慌てて身体を支えてくれた。
「無理しないで。まだ顔色、よくないから」
「大丈夫だよ」
そう答えながら、ぼくは自分自身の身体に意識を向けた。
不思議だった。
頭が痛くない。
あれほど激しく脳を締めつけていた痛みが、嘘のように消えている。
それだけではない。
今までずっと頭の中に漂っていた霧のようなものが、完全に晴れていた。
世界が、鮮明だった。
花びらの一枚一枚。
風に揺れる葉。
遠くで聞こえる水の音。
すぐ隣にいるミアの呼吸。
すべてが、驚くほどはっきりと感じられる。
そして――。
自分が誰だったのかも。
ぼくは立ち上がった。
足元を確認する。
そこにあったのは、あの墓石だった。
滑らかな漆黒の石。
その中央に刻まれた、ポケベルを模した意匠。
そして、その下に刻まれた言葉。
『人間の宇宙の記者がここに眠る』
ぼくは、もう一度その文字を見つめた。
さっきまでなら、この文字を見るだけで頭を引き裂かれるような痛みに襲われていた。
けれど、今は違う。
痛みはない。
ただ、静かだった。
むしろ、すべてが一つに繋がっていく。
「以前のぼくは……」
自然と声が出た。
「この世界のうさぎじゃなかった」
ミアは何も言わなかった。
ただ、じっとぼくを見つめている。
「ぼくは、人間だった」
口に出してみる。
その言葉に、もう疑いはなかった。
「地球から月へ向かう宇宙船に乗っていた。そして…事故に遭った」
記憶の断片が脳裏をよぎる。
燃え上がる宇宙船。
脱出ポッド。
減っていく酸素。
迫りくる月面。
そして、最後に思い浮かんだ小さな家族。
「ここに眠っているのは…過去のぼくなんだ」
荒唐無稽な話。
普通なら、信じてもらえるはずがない。
けれど。
ミアは何も言わなかった。
ただ、涙を流していた。
「…どうして泣いてるの?」
ミアは慌てて目元を拭った。
「…分からない」
そう言って、少しだけ笑う。
「嬉しいのかも」
「嬉しい?」
「うん」
その笑顔が、なぜか懐かしかった。
胸の奥に、遠い昔の記憶を呼び起こすような感覚がある。
けれど、今はまだ、その正体までは分からない。
ぼくはポケットに手を入れた。
指先に、硬く小さな感触が触れる。
取り出したのは、あの黒いポケベルだった。
「これも…分かった」
手のひらの中で、ポケベルを見つめる。
月世界に目覚めてから、ずっと不思議だった。
どうして、自分はこの機械を持っていたのか。
なぜ数字だけが表示され、意味を理解できなかったのか。
それが今なら分かる。
これは、ただの古い通信機器ではない。
かつてのぼくが、この世界のぼくに残したもの。
最後のメッセージ。
時空を越えて託された、短い言葉だった。
ぼくは画面を見つめた。
そこに表示された数字。
『8、1、2、3、3、5、2、3』
以前なら意味の分からなかった数字。
けれど今は違う。
数字の一つ一つが、組合せることで意味を持っている。
ぼくはゆっくりと読み上げた。
「…『や・く・そ・く』」
ミアの肩が、びくりと震えた。
その反応に気づきながらも、ぼくは次の数字へ視線を移した。
『7、2、4、3、2、4、4、4』
指先で画面をなぞる。
そして。
「…『み・つ・け・て』」
その瞬間だった。
ミアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「約束…」
ぼくは小さく呟いた。
「見つけて…」
胸の奥が、強く締めつけられる。
この二つの言葉は、明らかに誰かへ向けたものだ。
しかも、ただの伝言ではない。
死を目前にした自分が、未来の自分へ託したメッセージ。
それほどまでに伝えたかった「約束」。
そして、その約束の相手を――。
「…見つけて、か」
ポケベルを握りしめる。
どうしてだ?
どうして、死ぬ間際のぼくは、こんなメッセージを残したんだ?
なぜ、未来の自分に「見つけて」と託した?
「どうして…」
声が震える。
「どうして月世界でなら、約束を果たせると思ったんだ?」
答えは出ない。
そもそも、なぜ自分がこの月世界へ来たのか。
女神の存在も知らない。
転生の理由も分からない。
ただ一つだけ確かなのは、前世のぼくが、この場所へ何かを託していたということ。
そして――。
一番大切なピースだけが、まだ抜け落ちている。
ぼくはゆっくりと顔を上げた。
隣では、ミアが涙を拭っている。
その表情を見つめながら、ぼくは問いかけた。
「相手は…誰なんだ?」
ミアは答えなかった。
ただ、潤んだ瞳でぼくを見つめていた。
その瞳の奥には、悲しみとも、喜びともつかない、複雑な感情が揺れていた。
まるで――。
ずっと待っていた人を、ようやく見つけたような。
そんな表情だった。
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