<記憶の墓>
空気が、変わった。
先ほどまでの浮き足立ったようなデートの空気は、いつの間にか消えていた。
花の香りも。
柔らかな人工太陽の光も。
隣を歩くミアの存在さえも。
すべてが、どこか遠くに感じられる。
代わりに胸の奥へ入り込んできたのは、言葉では説明できない妙な感覚だった。
まるで、目には見えない何かに引かれている。
一本の糸が、ずっと昔から自分の身体に結びついていて、その糸の先へ、今になってようやく導かれているような――。
「…」
ぼくは無言で歩き続けた。
隣にいるミアも、何も言わない。
さっきまでなら、何気ない話題を探して話しかけていたはずなのに。
今は、二人とも口を開かなかった。
ただ、白い石畳を踏む、足音だけが静かな園内に響いている。
やがて、周囲の景色が変わっていった。
古い樹木が並ぶ一角へ入った。
枝葉が頭上を覆い、人工太陽の光が細かな斑点となって地面へ落ちている。
その先には、古い墓石が並んでいた。
新しいものもある。
古いものもある。
どれも丁寧に手入れされているが、花畑の区域とは明らかに雰囲気が違っていた。
静かだった。
静かすぎるほどに。
そのとき――。
ふと、足が止まった。
自分でも、なぜ立ち止まったのか分からなかった。
ただ。
視線が、ある一点へ吸い寄せられていた。
そこに何かがある。
そう思った。
理由はない。
説明もできない。
なのに、分かる。
「あそこだ…」
声が漏れた。
ミアが振り返る。
「え?」
ぼくは答えなかった。
答えられなかった。
気づけば、石畳の小道から外れていた。
芝生を踏みしめる。
一歩。
また一歩。
まるで自分の意思ではなく、何かに呼ばれているようだった。
「アルトさん…?」
ミアの声が背後から聞こえる。
それでも、ぼくは振り返らなかった。
目の前の墓石から、視線を外すことができなかった。
それは、周囲に並ぶ墓石とは明らかに異なっていた。
滑らかな漆黒の石材。
月世界で一般的に使われている素材なのかもしれない。
けれど、その形には妙な既視感があった。
墓石の中央。
そこには、長方形のパネル。
そして、その下に並ぶいくつかの小さなボタン。
まるで――。
「…ポケベル」
息が止まった。
見間違えるはずがない。
あの黒い四角い機械と、ほとんど同じ形だった。
ぼくの手の中にあるポケベル。
目の前に刻まれている、墓石の意匠。
偶然とは思えなかった。
心臓が、急激に速くなる。
ドクン。
ドクン。
耳の奥まで、その鼓動が響いてくる。
「アルトさん…?」
ミアが心配そうに近づいてくる。
けれど、ぼくは答えられない。
墓石の下部に刻まれた文字へ、目が吸い寄せられていた。
月世界の共通言語ではない。
見たことのない文字でもない。
それは。
日本語だった。
なぜ読めるのか。
そんな疑問すら、浮かばなかった。
そこに書かれている意味が、頭の中へ直接流れ込んでくる。
一文字ずつ。
確実に。
そこには、こう刻まれていた。
『人間の宇宙の記者がここに眠る』
「人間の…」
声が震えた。
「宇宙の…記者…?」
その言葉を、自分の口で読み上げた瞬間だった。
――ガァァンッ!!
頭の奥で、何かが爆発した。
「――ッ!」
猛烈な衝撃が頭蓋骨の内側を駆け抜ける。
まるで、脳そのものを直接殴りつけられたようだった。
「あ……痛い……ッ!」
膝から力が抜ける。
ぼくはその場に崩れ落ちそうになり、両手で頭を抱えた。
「アルトさん!」
ミアの悲鳴が聞こえる。
肩を支えようとする腕。
けれど、その感触さえ遠ざかっていく。
頭が痛い。
痛い。
痛い――!
視界が明滅する。
花。
墓石。
木々。
ミア。
それらすべてが、激しい砂嵐のように崩れていく。
「大丈夫!?」
何か叫んでいる。
分かる。
ミアの声だ。
でも、声だけが遠い。
代わりに、別の音が聞こえてきた。
――警報。
甲高い警告音。
赤く点滅するランプ。
無機質な金属の壁。
知らないはずの光景。
なのに――。
知っている。
「……なんだ、これ……」
言葉が口から漏れる。
次の瞬間。
別の光景が弾けた。
青い。
どこまでも青い星。
漆黒の宇宙に浮かぶ、巨大な地球。
「地球……?」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。
知っている。
あの星を。
自分は、あの星を知っている。
次々と映像が押し寄せてくる。
宇宙船。
操縦席。
無数の計器。
赤いエマージェンシーランプ。
激しく揺れる船内。
誰かの叫び声。
今度は一転、地球の穏やかな室内。
白衣。
自分の身体。
その手に抱いている、小さな命。
温かい。
かすかに震えている。
守らなければ。
そう思った。
なぜ、そんなことを思ったのか。
分からない。
けれど、それは確かに自分の記憶だった。
「…獣医師…」
その言葉が、突然、頭の中に浮かんだ。
獣医師。
自分は、その仕事をしていた。
いや。
それだけではない。
記者。
宇宙。
地球。
月。
いくつもの断片が、猛烈な勢いでつながっていく。
まるで、バラバラだったパズルのピースが、最後の一枚をきっかけに一斉に形を成していくようだった。
呼吸が苦しい。
酸素が足りない。
この感覚を知っている。
あの日。
何かが起きた。
事故。
月へ落ちていく。
死を覚悟した。
そこまで考えた瞬間、頭の中に再び墓石の文字が浮かんだ。
『人間の宇宙の記者がここに眠る』
人間。
宇宙の記者。
ここに眠る。
「……まさか」
震える声が漏れた。
目の前の墓石に刻まれた、胸へ突き刺さる。
頭の中で、二つの存在が重なった。
今の自分は、うさぎとして生きているアルト。
そして。
かつて地球で生きていた、人間の自分。
同じ魂。
同じ「ぼく」だ。
ぼくは、人間だった。
かつて地球で生きていた。
そして、宇宙を目指していた。
この墓に眠っている「人間の宇宙の記者」は。
他の誰でもない。
自分自身だ。
「…ぼく、だったんだ」
声にならない声が漏れた。
恐怖なのか。
驚きなのか。
それとも、長い間探していた答えを見つけた安堵なのか。
自分でも分からない。
ここに刻まれた文字と、頭の中に残っていた断片が、ひとつにつながってしまった。
だから。
ぼくは確信してしまった。
この墓に眠っている人間は、かつてのぼく自身なのだ。
その瞬間、世界が暗転した。
ミアの声も。
風の音も。
人工太陽の光も。
すべてが遠ざかっていく。
そしてぼくは、自分自身の正体を確信したまま、
底なしの闇の中へ、真っ逆さまに落ちていった。
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