<二人の距離感>
パーク内へ一歩足を踏み入れた瞬間、ぼくは思わず足を止めた。
「…すごい」
思わず、そんな言葉が口からこぼれる。
目の前に広がっていたのは、墓地という言葉から想像していた場所とは、まるで違う光景だった。
月世界の黒い空を覆う、透明な巨大ドーム。
その向こうには、いつものように漆黒の宇宙が広がっている。
けれど、ドームの内部には柔らかな人工太陽の光が降り注ぎ、なだらかな丘陵がどこまでも続いていた。
丘の斜面には、色とりどりの花が咲いている。
地球から持ち込まれた植物もあれば、月世界で独自に改良されたものらしい植物もある。
見たことのない形をした花が、淡い光を放ちながら風に揺れていた。
その間を縫うように、白い石畳の遊歩道が伸びている。
道の脇には小さな噴水があり、透明な水が静かに流れていた。
さらにところどころには、月世界の芸術家が作ったという彫刻が置かれている。
墓地。
その言葉から想像する暗さや恐ろしさは、ここには微塵もなかった。
むしろ、命が終わった場所だからこそ、残された命を優しく包み込む。
そんな意思が、この場所全体に込められているように感じた。
「ふふっ」
隣から小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、ミアがこちらを見ている。
「そんなに驚くと思わなかった」
「いや…だって、墓地って聞いていたから」
「私も最初はそう思ったわ」
ミアは少し先にある花壇を指差した。
「でも、ここは普通のお墓とは少し違うの。月に還ってきた魂が、ゆっくり休む場所だから」
「月に還ってきた魂…」
「うん」
ミアは花壇の中に咲いている小さな白い花を見つめた。
「寂しくないように、いっぱい花を植えているんだって」
「なるほど」
ぼくはもう一度、周囲を見渡した。
「だから、こんなに綺麗なんだ」
「そう。私は、この場所が好き」
ミアがそう言って笑う。
その横顔を見ていると、なんとなく分かる気がした。
この場所は、彼女にとって単なる墓地ではないのだろう。
大切な誰かを思い出す場所。
そして、静かに会いに行ける場所なのかもしれない。
「じゃあ、今日はミアちゃんに案内してもらおうかな」
ぼくが言うと、ミアは少し驚いたように目を丸くした。
「私が?」
「うん。地図を見ながら歩くより、詳しい人と一緒のほうが楽しいだろ?」
「…もう」
ミアは照れたように笑った。
「じゃあ、任せて」
そう言って、少しだけ胸を張る。
その仕草がおかしくて、ぼくも笑った。
さっきまで感じていた緊張が、少しだけほどけていく。
二人で並んで歩き始めた。
最初は少しだけ距離があった。
けれど、いつの間にかミアがぼくの歩幅に合わせてくれていることに気づいた。
ぼくが少し速度を落とすと、彼女も自然に歩みを緩める。
逆に、ぼくが先へ進みすぎると、
「アルトさん、こっち」
と笑いながら呼び止めてくれる。
そんな何気ないやり取りが、妙に嬉しかった。
「この花、何ていうんだろう?」
「月鈴草。夜になると花びらが少し光るの」
「へえ」
「アルトさんって、こういうの好き?」
「植物?」
「ううん。知らないものを知ること」
一瞬、答えに詰まった。
「…好きだと思う」
「やっぱり」
ミアが嬉しそうに笑う。
「なんとなく分かるようになってきた」
「ぼくのこと?」
「うん」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「例えば?」
「気になることがあると、すぐ顔に出るところ」
「そんなに?」
「うん。それに、面白いものを見つけると、子供みたいな顔をする」
「…それは恥ずかしいな」
「ふふっ」
ミアが笑う。
つられて、ぼくも笑った。
以前なら、こんなふうに他愛のない会話をすることなど想像できなかった。
月世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、ミアと歩いていると、不思議と昔から知っているような気がする。
沈黙が訪れても気まずくない。
無理に話題を探さなくてもいい。
ただ隣に誰かがいる。
そのことが、心地よかった。
「ねえ、アルトさん」
「ん?」
「今日、楽しい?」
ミアが少しだけ上目遣いで尋ねてくる。
「うん」
ぼくは素直に答えた。
「すごく楽しい」
するとミアの長い耳が、嬉しそうにぴくりと動いた。
「よかった」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がまた温かくなる。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そんなことを考えてしまった。
けれど、公園の奥へ進むにつれ、景色は少しずつ変わっていった。
華やかな花畑が途切れ、高く伸びた樹木が並ぶ区域へ入る。
木々が人工太陽の光を遮り、足元には淡い影が落ちていた。
さっきまで聞こえていた水の音や話し声も、次第に遠ざかっていく。
ひとけがない。
静かだった。
ミアも、さっきまでのようには話さなくなった。
ぼくは横目で彼女を見る。
柔らかな表情。
けれど、その奥にどこか緊張があるように見えた。
そろそろ話すべきだ。
ここへ来た本当の目的を。
ぼくは歩みを少し緩めた。
「ねえ、ミアちゃん」
「ん?」
彼女が振り向く。
ぼくはジャケットのポケットへ手を入れた。
指先に、あの感触が触れる。
黒い四角い箱。
「実は今日、ここに来たのには…取材とは別の理由があるんだ」
「…別の理由?」
「うん」
ぼくはポケットからポケベルを取り出した。
液晶画面は真っ暗。
今は何の数字も表示されていない。
「これ、なんだか分かる?」
ミアの視線が、ポケベルへ向けられる。
その瞬間だった。
彼女の足が、ぴたりと止まった。
「…それは」
声が、微かに震えていた。
「ぼくが目を覚ましたときから持っていたものなんだ」
ぼくはポケベルを手のひらに乗せたまま続ける。
「地球の通信機器で、『ポケベル』っていうんだ」
ミアは何も言わない。
ただ、じっとそれを見つめている。
「このポケベルのことで、ルナ研究大学の教授に会ってきたんだ」
ぼくは、これまでに分かったことを話した。
最初から表示されていた数字の羅列。
そして、月面の塔で突然表示された新たな数字の羅列。
それが単なるメッセージではなく、何らかの場所を示している可能性。
教授が見つけた古い記録。
そして。
「その場所が、ここなんだ」
ミアの表情が、ほんの少しだけ強張った。
「教授は、昔ここに特別な魂を弔うための区画があったと言っていた」
ぼくは一つずつ、言葉を選びながら話した。
「重要な記憶を封印するための場所だった可能性もあるらしい」
そこまで話しても、ミアは俯いたままだった。
「だから…どうしても確かめたかった」
ぼくはポケベルを見つめる。
「自分が何者なのか」
静寂が落ちた。
長い沈黙のあと、ミアがようやく顔を上げる。
「…そう、だったのね」
その瞳は潤んでいた。
今にも涙がこぼれそうなのに、必死に堪えているようだった。
「ミア…ちゃん…?」
「ううん」
彼女は慌てて目元を拭った。
「ごめんなさい。ちょっと…目にゴミが入ったみたい」
そう言って笑おうとする。
けれど、その笑顔は明らかに無理をしていた。
「お墓、探しましょう」
ミアは静かに言った。
「教授が言っていたヒントが、きっとどこかにあるはずだから」
「…うん」
ぼくは頷いた。
それ以上、聞くことはできなかった。
けれど、彼女の横顔を見ながら思う。
ミアは何かを知っている。
いや、知っているだけじゃない。
まるで、ずっと昔から探していたものを目の前にしたような顔をしていた。
さっきまでの穏やかな空気は、もうどこにもなかった。
それでも、ミアはぼくの隣を離れなかった。
ぼくもまた、彼女のすぐ隣を歩いた。
二人の肩が、ときどき触れそうになる。
その距離が、以前より少しだけ近くなっていることに。
ぼくはまだ、気づいていなかった。
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